佐藤正午『熟柿』 #
読了#
罪は罪として背負い続けなければならない。一時の誤ちだったとしても、罪か罪でないかの判断は他者に譲らなければならない。隣に立つのが優しい人ならば誤ちは過失として受け入れてもらえる。しかし、全ての人が全ての人の敵である限り、罪人が無罪放免とされることはない。罪の発見は罰の発生を意味し、社会への還元という名目で罪人はいいようにされてしまう。私的に決められる罰には終わりがなく、罰を利用する者の頭から法律なんてすっ飛んでいく。罪人は正義に駆動された人々にちゅうちゅうちゅうちゅう暴利を貪られる、それはもう死ぬまでずっと。
罪を背負えば一人で生きていくしかない。罪が露見すればどこか遠くへ逃げるしか道がない人生なのだ。共に歩むことを選んだ者たちに甚大な被害をもたらす可能性と昼夜向き合わなければならない毎日なのだ。
ところがだ。人と人の繋がりは頭で考えてどうにかなるものではない。親子だって、夫婦だって、友達だって、なんら理性的な関係性ではない。よくよく考えてみれば、共に居ることの理由をはっきりさせる前に、僕らはもう共に居るのだ。仲良しになったから仲良しなのだ。僕はここに救いがあると思う。
罪は罪として消えることがない。罪はどこまでも罪人を追いかけ回す。それでも善き人であろうと志すことは誰にだって許されている。罪が赦されずとも善く生きようとしていいのだ。
そして、善く生きるにはまず他者を必要とする。誰かのために生きることこそ善く生きることだからだ。人と人との繋がりが僅かでも、細くとも、そこに存在する限り、人は善く生きる機会を得ているのだ。