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🔷どこよりも遠い場所にいる君へ🔷 和田純一監督インタビュー 直球の感情表現に向き合う 「王道感」のあるアニメに  #どこよりも遠い場所にいる君へ# #どこきみ# @dokokimi_movie
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TOKYO MX「映画『どこよりも遠い場所にいる君へ』公開記念SP!」 映画『どこよりも遠い場所にいる君へ』公開記念SP! #TVer#
🇺🇸LAで開催のAnime Expo 2026にて 映画『どこよりも遠い場所にいる君へ』 秋鹿七緒役の #永瀬アンナ# が登壇いたしました✨ 現地までお越しくださった皆さま有難うございました! Thank you for coming to the To you in the Beyond: -Dokokimi- Festival at Anime Expo! See ya! #AX20226# #どこきみ#
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藤木直人、劇場アニメ『どこよりも遠い場所にいる君へ』友情出演 『リメンバー・ミー』以来8年ぶり石橋陽彩と再共演(写真 全5枚)
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最新話が更新されました! [第11-1話] どこよりも遠い場所にいる君へ /
先ほど、参議院の特別委員会で皇室典範改定案が可決されました。私は以下の反対討論を行いました(長文です)。 私は日本共産党を代表して、政府提出の皇室典範改定案に反対の討論を行います。 天皇の制度の議論は、憲法の条項と精神に基づいて行い、国民の合意と納得を得て進めていくべきものです。女性天皇、女系天皇を認めるべきという圧倒的な世論を無視して、3時間余りの質疑で採決することは許されません。 そもそも、日本国憲法第1条では、天皇の地位は「主権の存する国民の総意に基く」とされています。昨日の質疑で木原稔官房長官は、国民の理解はいまだ得られていないことを事実上認めました。国民の総意に反するやり方は、将来に大きな禍根を残すものです。 反対理由の第一は、男系男子の皇位継承に固執し、さらに強化することが、日本社会における女性差別を助長するからです。 官房長官は、本法案は日本社会における女性差別を助長することになるのではないかとの私の質問に、「女性差別とは関係ない」とごまかしました。しかし、女性というだけで「国民統合の象徴」の地位につけないとなれば、社会における女性差別を助長することになるのは明らかです。 政府は「男系男子での継承が、わが国の歴史と伝統」と繰り返しますが、この「歴史と伝統」は明治時代に作られたものです。1889年に制定された大日本帝国憲法は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」として天皇主権を確立し、同時に旧皇室典範に「男系男子」継承を明文化したものです。 この間の議論で自民党が強調する「皇位の男系継承は2600年以上にわたる皇統の伝統」「今年は皇紀2686年」などというのは歴史の事実ではありません。明治時代に天皇を現人神と描き出すためにつくられた皇国神話そのものです。いまだにこうした歴史観に立って「男系男子継承」にしがみついていることは驚くべきことです。 戦後、日本国憲法は国民主権を確立し、皇国史観にもとづく天皇主権を明確に否定したのであります。天皇は主権の存する国民の総意に基づく象徴とされ、憲法第2条は、皇位を「世襲のもの」とし、戦前の「皇男子孫」による継承は削除されました。 この日本国憲法のもとで、多様な性をもつ人々によって構成されている日本国民の統合の「象徴」である天皇を、男性に限定する合理的理由はどこにもありません。 天皇の制度は、憲法の条項と精神に基づき、主権者・国民の総意のもとにおくことが、何よりも大切だと強調するものです。 反対理由の第二は、皇族の養子縁組を禁止する現行の皇室典範の規定を覆し、「旧11宮家」の男系男子を将来にわたって皇族の養子候補とし、養子の子の男子に皇位継承権を与えることにしたからです。 「旧11宮家」と、いまの天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代まで遡ります。いまの天皇と36~38親等もの隔たりがある、ほとんど赤の他人に等しいとも言われる、遙か遠い血筋からの養子までもちだして、女性・女系天皇の道を閉ざし、「男系男子継承」に固執する政府の姿勢は、時代錯誤の男尊女卑そのものです。 私が質問で指摘したように養子は皇室の伝統になかったものです。 旧11宮家は、80年前、現典範11条1項の規定にもとづき、自らの意思で皇籍を離れた人々であり、その子孫は一般国民として生まれ育ってきた人たちです。旧宮家だからといって、特別な身分である皇族とすることは、憲法14条1項が禁止する「門地による差別」にも抵触します。さらに、将来にわたって皇族の養子候補に位置づけられた、旧宮家の男系男子の子孫とその家族を「準皇族」ともいうべき特殊な身分に置くものであり、これらの人々の人権を不当に制約することにつながりかねません。 さらに実際の養子縁組において、政治家などが縁組に関与し、天皇の制度の政治利用を引き起こすことが危惧されることを指摘しておきます。 反対理由の第三は、女性皇族とその子が天皇になる道を閉ざしながら、「皇族数の確保」のために皇室行事を担う要員たれと、結婚後も皇室に残ることを原則としているからです。 婚姻後の女性皇族に、住民基本台帳を適用しながら、国民としての権利を認めないというのは矛盾も甚だしいものです。女性皇族を都合良く扱おうというものにほかなりません。 しかも、配偶者や子に皇族の身分を与えないことは、徹底して女系天皇の芽をつもうという意図をあからさまに示すものです。 なお、昨日の質疑で官房長官は、女性皇族の配偶者や子は皇族にならないという本案は、家族との一体性との間で、整合性がないのではとの問いに、日本人と外国人の夫婦を例に挙げて、「そういう夫婦において、国籍や参政権、戸籍の有無等によって違いが生じるが、家族の一体性ということでは、不整合は生じていない」と答えました。この答弁は、選択的夫婦別姓を否定する際の「家族の一体性が失われる」という論拠を政府自身が否定したものであることも指摘しておきます。 反対理由の第四は、政府は今回の法案は「立法府の総意」にもとづくといいますが、昨日の質疑でも反対意見が相次ぐなど、「立法府の総意」なるものが完全に崩壊しているからです。 政府は、皇位継承の問題とは切り離した皇族数の確保策を議論するといいながら、法案提出の段階で、養子の子の男子が皇位継承資格を持つとする規定を突然盛りこみました。国会と国民を愚弄するものであり、断じて許されません。 政府は、「立法府の将来の検討を縛らない」などといいますが、女性天皇への道を完全に塞ぎ、男系男子のみによる皇位継承を固定化しようというのですから、将来のあり方まで縛ってしまうものにほかなりません。 以上、本法案は、日本国憲法の精神と条項に反し、「主権の存する国民の総意」に基くべき天皇の制度を根本から変質させることにつながるものです。 日本共産党は、断固反対し、廃案とすることを強く求め、反対討論とします。
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「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にはめるか、現代の風俗店に問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段は「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、私は今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。   当時の文庫本の 後書きにこう書きました。 「どうしようもなく寂しくて、誰かに電話をしようと アドレス帳を開く。でも結局ボタンをそのままそっと携帯を閉じる。そんな夜に読んでほしい」   いつもの葉山透からはかけ離れた ポエティックな文章⋯。 でも 誰にだってそんな夜は あると そんな夜にこそ横にいて欲しい物語があると、そんな気持ちで書きました。 と、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、20年前に絶版になってしまった物語を、同人誌で復刊しました。 「この世界の何処かにいる誰か」に届くことを願って。20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に。 文庫本 2冊分に、一人の作家の20年が詰まっています。 通販もしています。 リプ欄にのせておきます。   一人でも多くのやるせない夜を抱えた方に届きますように。
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「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にあてはめるか、現代の風俗店にし時代的な問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段はプロットを作る時「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義です。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。 文学フリマ。 「自分が文学と信じるものを作り手が自ら売る」 商業のように「儲けを出さなければいけない」という前提はありません。書き手が負債を請け負う覚悟があればいい。 (同時に、商業で確立されている編集テクニック、装丁、営業広告、全国どこでも1冊から取り寄せできる流通と書店さんというものが、どれだけ洗練されていてありがたいものか実感します。このシステムを持続可能にするには、やはり売れなければいけないな、と) とまあ、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、細々と通販しているぶんを、文学フリマ大阪14にも持っていきます。 商業ベースにはのらなくても 「世界の何処かにいる誰か」に届けたい物語を、20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に、一冊の同人誌にまとめて。
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「私が成吉思汗について一番書きたいと思ったことは、成吉思汗のあの底知れぬ程大きい征服欲が一体どこから来たかという秘密である」。井上靖は本書について、そう書き残している。歴史小説とは何か。史実とフィクションはどこで手を結び、どこで裂けるのか。『蒼き狼』は、その問いを日本文学史に刻みつけた作品だ。 物語の核にあるのは、テムジン、のちのチンギス・カンの出生の影である。彼の母・ホエルンは他部族から掠奪されてきた女性だった。テムジン自身、自分がほんとうに父イェスゲイの血を継いでいるのか、確信が持てない。だからこそ彼は、モンゴルの伝承にうたわれる蒼き狼の末裔であることを渇望し、血の証明の代わりに行為の証明を、つまり征服を積み重ねていく。井上はそう描いた。 ここでモンゴルの神話に触れたい。モンゴル最古の歴史書『元朝秘史』は、天の命を受けて生まれた蒼き狼と、その妻である白い牝鹿が大きな湖を渡ってきたという起源神話から始まる。蒼き狼と白い牝鹿を祖とするこの伝承は、モンゴル民族の誇りの源泉だった。また、掠奪婚は当時の草原では珍しいものではなく、女性をめぐる部族間の争奪が同盟と復讐の連鎖を生む社会の力学そのものだった。テムジンの母もテムジンの妻ボルテも、掠奪を経験している。井上はこの史実の骨格の上に「自分は何者か」という近代的な自己証明の主題を接ぎ木した。そして、この接ぎ木こそが日本文学史に残る論争を呼んだ。 1961年、大岡昇平が「群像」の文芸時評でこの作品を痛烈に批判した。大岡の言い分はこうだ。成吉思汗が出生の秘密に悩み、蒼き狼の伝承に霊感を受けて大征服を行ったという痕跡は史料のどこにもない。『元朝秘史』で家畜を害う獣として現れる狼を井上は都合よく読み替え、史料にない狼の原理を主人公に背負わせている。これが歴史小説と言えるのか、と。大岡は批判の結びにこう突きつける。「何よりまず歴史を知らねばならぬ。史実を探るだけではなく、史観を持たねばならない。この意味で、井上氏の文学は重大な転機にさしかかっているのである」。井上は自作について反論を書き、大岡はさらに再反論した。戦後文学を代表する二人が一冊の小説をめぐって真っ向からぶつかった。 ぼくはこの論争を、どちらが勝ったかで語りたくない。むしろ、小説家と批評家が全力で衝突したこの緊張そのものが日本の歴史小説を鍛えたのだと思う。争点は要するに、歴史小説はどこまで史実を離れてよいかという一点だった。史実に忠実なだけの物語は年表になる。史実を離れすぎた物語は歴史の衣装を借りた空想になる。その細い尾根を歩くのが歴史小説家の宿命だ。 大岡の批判は史学的にはおおむね正しい。今日のモンゴル史研究の水準から見ても、井上のチンギス像は史実から遠い。だが、それでもぼくは思う。井上は史料の裂け目に「人間の孤独」という光を差しこんだ。出自の不安を行為で埋めようとする人間の業。それは十三世紀の草原にではなく、いつの時代のどの人間の内にもある。自分が何者かを血統で証明できないから行為で証明しつづける。この構図は、身分や家柄が効力を失った近代人の姿そのものではないか。 ぼくらは誰も、生まれによっては何者でもない。だから業績で、実績で、フォロワー数で、自分を証明しつづける。井上が成吉思汗に託したのは、たぶん、近代人の終わりのない自己証明の苦しみだった。だからこの小説は、十三世紀の物語でありながら、読む者の現在に刺さる。 『蒼き狼』井上靖(新潮文庫、新潮社)
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