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井上春生
@HUGMACH
フィルムメイカーの井上春生です┊フランスチームと新作映画撮影中┊生きてる速度で経験の蒸留からランダムに書いてます┊トレード情報は消していきます┊本物はマフラーオレンジ、背景ピンク
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プロデュース・監督の井上より 本日より、チケット発売開始しました 1️⃣「眩暈VERTIGO」完売 2️⃣「幻を見るひと」残席わずかです お早めにどうぞご入手ください 私も劇場にいます 🤳 #吉増剛造# #いとうせいこう# #UPLINK吉祥寺#
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ここでフランス映画の現実と、それにまつわる株式と債権の話までするね。 日本映画との差はどこにあるかという構造の話です。 いま、フランスとの合作を自己資本で進めていて、以前よりはっきり見えてきたことがある。日本に欠けているものだ。 あの『レオン』のリュック・ベッソンは、パリ郊外に巨大な撮影スタジオ「シテ・デュ・シネマ」を構想したとき、公的機関や行政、民間企業まで巻き込み、都市開発のレベルで動かした。 個人の映画作家が、経済政策にまで食い込んだ。「個人が構造を作った」例だ。半導体でいうファウンドリです。 フランス映画は「公助で成り立っている」とよく言われる。このCNC(フランス国立映画映像センター)を参考にすべきだという提言も耳にする。 でも、実際に現場を見ると、重要なのは補助金の額ではない。CNCの意義は、補助金そのものではなく、市場と製作を結ぶ回路を制度として設計したことにある。 これは、映画館のチケット、テレビ放送、配信など、市場で生まれた収益の一部を、映画製作へ自動的に循環させる仕組みだ。 つまり、今日の満腹が、明日の料理人を養う。そんな循環が、制度として組み込まれている。 国が市場のキャッシュを循環させる回路を設計した。 Netflixも、フランスでは制度上、国内売上の一部をフランスや欧州作品へ投資する義務を負っている。市場の収益を製作へ戻すという発想は、CNCの回路設計と共通している。 フランス映画製作の本質とは、補助金ではなく強制的リサイクル市場ということにある。 日本に欠けているのは、補助金の額ではない。 この回路の設計だ。 例えば、昨夏もパリでエキストラを一人雇うだけでも、そこには報酬や契約の厳密なルールがあり、日本で散見する人々の好意や篤志だけでは現場は回らない。資料にサインも当然しなくてはならない。 映画が契約で動く以上、資金もまた、どんな回路で流れるのかが問われる。 つまり、細かいことを言うと、国の補助金で映画を作るというのは、文化の未来を財政に預けるという意味で「債券の世界に身を置く」ことに少し似ている。 守られているように見えても、その未来は、財政や金利といった、自分では動かせない変数に左右される。 金利が上がれば財政の余力は縮み、文化予算は真っ先に圧力を受けやすい。 そこに矛盾がある。 何故? 「映画は、本来、株式に近い。」 一本ごとの成否が大きく分かれる、ハイリスク・ハイリターンの世界で、当たれば大きな価値を生み、外せばゼロになる。 整理するとこれ。 補助金=債券(外部変数に左右される) リスクマネー=株式(成果に応じて変動する) だから、その本質に見合うのは、リスクを引き受ける資本との接続だ。 もちろん、公的支援は必要。アーカイブや教育、地域文化など、市場だけでは支えきれない領域は存在する。 しかし、映画そのものを生み出す資本まで補助金だけに委ねてしまえば、文化の未来は、財政や金利という外部要因に縛られ続けることになる。 必要なのは、国か市場かという二者択一ではない。映画の性格にふさわしい資本の回路を設計することなのではないか。 文化は作品だけでは育たない。作品へ挑戦できる資本の仕組みまで設計して、初めて文化は持続する。 フランスが強いのは、映画を株式として扱いながら、キャッシュフローはインデックス化(市場全体に連動させて薄く広く循環)していることにある。 日本の問題は、単発ファイナンスであることで、つまり、キャッシュが文化に戻らない。 これがボトルネックなんですよ。 国立映画アーカイブも、運営母体である独立行政法人国立美術館も、文化を支える「回路」の設計まで視野に入れたとき、初めて未来への持続性が見えてくる。 文化は作品ではなく、成功と失敗の両方を再投資できる構造、すなわち複利の回路で決まる。 日本映画の「踏み込めなさ」の正体が、ここです。
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さらに突っ込んで言うね。 この10年、痛烈に感じたことがある。日本映画と資本市場の分断だ。その間、投資をして自己資本で映画を作り続けてきて、何度も感じた。 日本の製作委員会方式は、悪い発明ではなかった。一社が全額を背負えば、一本失敗しただけで会社が傾く。だから複数社でリスクを分け合う。これは本来、極めて合理的な仕組みだった。 ただ、その背景には、日本の文化と金融が長く別々の部屋に閉じ込められてきた現実があって、投資家が映画へ資本を投じる回路を、日本社会は育ててこなかった。製作委員会は、その断絶を埋めるために生まれ、本物の資本市場の代用品になった。 幹事会社は、それぞれに立ち上げた理由と背景がある。ぼく自身も、この仕組みの中で6本ほど監督をさせてもらった。でも、本来なら市場から集まるはずのリスクマネーを、結果として業界の内部だけで循環させる閉じた仕組みになっていく。努力如何に関わらず、外から大きな資本が流れ込まない。 その下には、日本経済そのものの長い停滞が横たわっていたというのは簡単だ。バブル崩壊以降、日本は「増やす経済」から「減らさない経済」へと舵を切った。社会全体が守りに入り、リスクを引き受ける力を少しずつ失っていった。 これは肌身で感じる。その結果、製作委員会は「攻めのためのリスク分散」から、「損失を避けるための保険」へと性格を変えていく。 分け合うことは続く。 やがて、誰も踏み込めなくなる。 リスクを負う筋肉そのものが、個人ではなく、社会から萎えていったのだ。 ここで重要なのは、それを個人の意識の問題にしてはいけないということだ。「もっと挑戦しよう」「覚悟を持とう」という話にしてしまえば、最後は精神論になる。 構造の問題だと捉えれば、「回路を作り直そう」という設計の議論になる。 もちろん、「一人ひとりが行動すること」は正しい。 しかし、それを個人だけに委ねた瞬間、社会は精神論へ逃げる。 つまり、問われているのは、行動ではない。 行動を支える構造です。 先人たちは、それを実際にやってきた。 カサヴェテスは、自らの資金で『フェイシズ』や『こわれゆく女』を制作した。 スコセッシは、フィルム・ファウンデーションを立ち上げ、企業や財団が保存活動へ参加できる仕組みを設計し、900本を超える映画の修復を支えてきた。 メカスは、マンハッタンに実験映画作家のためのアーカイブを築き、その作品を未来へ渡す回路を作った。 これは、国に頼らないということではない。 国だけに頼らない構造を作るということです。 映画は作品だけでは残らない。 作品を支える回路まで設計して、初めて文化は未来へ届く。 大袈裟ではなく、小さくても構造は作れるよ。これらは全て、関わらせていただいた方々とのタッグの中で、自然と教えていただいたことだ。感謝しています。 スコセッシの話 「善意で寄付」ではなく、出す側に動機がある設計ー メカスの話
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