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Adrian Knox
@LifeBeLikeThatX
Adrian Knox’s Wise Life on X
参加 May 2020
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国を変える人は、 最初から強かったわけではありません。 むしろ、 誰にも見えない痛みを 誰よりも近くで見てきた人が、 やがて制度を変えようとすることがあります。 市川房枝。 彼女は1893年、 愛知県に生まれました。 教育を重んじる家庭で育ちましたが、 その一方で、 母が父から暴力を受ける姿も見て育ちました。 家の中で起きる苦しみは、 社会から見えにくい。 女性が耐えることを当然とされ、 声を上げることすら難しかった時代でした。 彼女は小学校の教師を目指し、 愛知の女子師範学校で学びました。 その後、東京へ出て、 女性運動と出会います。 そして1917年、 故郷に戻った彼女は、 名古屋新聞で初の女性記者となりました。 女性が社会を語ることも、 政治を語ることも、 まだ当然ではなかった時代です。 それでも彼女は、 見たことを見なかったことにはしませんでした。 1920年、 彼女は平塚らいてうとともに 新婦人協会を創立します。 それは、 女性の地位向上と福祉のために作られた、 日本で最初期の女性団体でした。 当時の日本では、 女性が政治活動に参加することすら 法律で制限されていました。 だから彼女たちは、 その法律を変えようとしました。 しかし皮肉なことに、 女性が政治参加を求める運動そのものが、 その法律によって禁じられていました。 それでも彼女たちは諦めませんでした。 運動ができないなら、 講演会という形で人々に語りかけました。 道が塞がれれば、 別の道を探しました。 そして1922年、 女性の政治参加を制限していた法律は改正されました。 その後、市川房枝はアメリカへ渡り、 女性参政権運動家アリス・ポールとも接触します。 1924年に帰国した彼女は、 国際労働機関の東京支部で働きながら、 日本初の女性参政権団体を結成しました。 そして1930年には、 日本で初めて女性参政権を求める大会を開きました。 彼女が求めたのは、 女性を特別に扱うことではありません。 女性もまた、 社会を支え、 税を払い、 家族を守り、 国の未来を背負っている一人の市民なら、 その社会を決める一票を持つべきだ。 ただそれだけでした。 しかし、 その「ただそれだけ」が、 当時の日本ではあまりにも遠い権利でした。 そして1945年。 日本は敗戦し、 ポツダム宣言を受諾しました。 その中で日本には、 民主主義の復活、 基本的人権の尊重、 政治制度の改革が求められました。 その流れの中で、 市川房枝たちが長く求め続けてきた女性参政権も、 ついに現実になります。 1945年11月、 日本の女性に完全な参政権が認められました。 それは、 突然空から降ってきた権利ではありません。 戦前から声を上げ続けた女性たちの努力と、 敗戦後の民主化という時代の大きな変化が重なって、 ようやく開かれた扉でした。 市川房枝は考えていました。 女性に政治的な力があったなら、 日本はあの破壊的な戦争へ進まなかったかもしれない。 それは、 女性だけのための政治ではありませんでした。 社会全体を、 二度と同じ過ちに向かわせないための政治でした。 権利は、 最初からそこにあったものではありません。 誰かが声を上げ、 誰かが叩かれ、 誰かが諦めずに 制度の扉を押し続けたから、 今そこにあるのです。 加藤シヅエが 女性に「選ぶ人生」を取り戻そうとした人なら、 市川房枝は 女性に「選ぶ一票」を取り戻そうとした人でした。 市川房枝。 彼女の名前もまた、 もっと知られていい日本の良心だと思います。
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