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加藤AZUKI
@azukiglg
怖くなる話全般が本来の守備範囲。 座右の銘は「ないとは思うが念の為」。 SNSは仕事じゃないから誤字があっても直せない。 貴方の前にいるのは「覗き込むと覗き返す深淵」「あなたを映す鏡」だよ。 長文で面倒臭いことを食い下がるけど今日も元気。 最新刊は『閨の背徳怪談』『「弔」怖い話 禁庫開錠』『恐怖箱 化野百物語』
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手荷物もなく、財布を持ってるようには見えず、スマホの防水がどれほどあてになるのか分からず、モバイルバッテリーがあるようにも見えない。 まさに着の身着のまま。 一息ついたら家に帰るわけでも泳いで戻るでもないのだろうし、通信手段も金も当座の食料も何なら身分証明手段もない人々、それも若い男ばかりが手ぶらで押し寄せてくる、と。 そりゃあ、省庁・商店・銀行・個人所有の財産の破壊と占拠、つまりは略奪しか思い浮かばんわな。 これ、沖縄・八重山諸島、台湾に人民解放軍が上陸してくるとき、たぶんこんな様相になるんだろなあ。 しかも、武装して。 上陸地は敵中だから、人道的配慮など必要ないし、どさくさなら処罰もされない。死人に口なし。 他山の石、他山の石、対岸の火事で済ますな、おまえらの帽子掛けをフル回転させろ!
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その「ギリギリの表現」を、根底から 「気に要らない人がいるかもしれないからナシね」 という方向に誘導しかねないのが、一連の問題。 しかも、「権限が不明瞭な民間団体の誰かの性癖に、皆が倣え」という。 各自の自粛に委ねるとかでいいなら、現状だって「広告での乳首+性器+性行為描写」はだいぶ制限されてる。 webでの無料閲覧ができるものの多くは、性器は完全アウトで海苔かシャイニング、乳首は作品によっては隠され、性行為は「18禁であることが明示されたサイト内」では表示されるけど、児童の閲覧を前提にしてる作品ではまずない。 これらは一律な基準ではなく、作者・編集部・版元それぞれの独自基準で「自粛」している。つまり、今世の中にあるものの多くは、既に「自粛済み」。 ここに「俺はこれにも疼きを感じるから駄目だ」論が持ち込まれると、ブルカをかぶってぷるぷるするヒロインが最初から最後まで何もしない物語以外はアウトになるよ、っていう話なんだよね。
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そもそも「エロ広告」の定義とか聞いてみたいよね。 赤いきつねCMのときは、「女の子がカップ麺の熱さをほふほふして上気しながら食べてた」という様子だけで、性器も胸の谷間も性的挑発も何もなかったけど、「性的」にされちゃってた。 では、 「何がセーフで何がアウトか」 「どれはセーフでどれがアウトか」 「誰がそうと判断するのか」 「何を根拠にそうと決めるのか」 「複数の人の判断が一致しないとき、誰の性癖を優先するのか」 例えば、この表紙はエロかどうか。 性器はおろか、生乳も出てません。
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日本人は、割と迷信深く、割とゲン担ぎを気にし、割と祟りを気にし、割と天罰を怖がるので、信仰心はある。なんだったら強いほう。 ただ、「宗教心」みたいなものがない。 特定の宗教だけを選んでそれ以外を唾棄して捨てる、ということが性に合わない。 例えばキリスト教を尊重するとき、平行してイスラム教も仏教も神道も鰯の頭も尊重する。自分が信じていなくても他人が大事にしているなら尊重はするけど、自分が押しつけられたら断固拒否する。 或いは「神の代行者を騙る人間が、神の名を盾に横暴になること」を許さない。 困りごとがあったときに「神様仏様○○様」と詰め合わせセットみたいに願って縋る呪文があるが、神様はGodとは限らず、仏様はどの仏かを特に定めず、○○様に至っては存命のアイドルだったりアニメや漫画の推しキャラだったりもする。 その程度には宗教心がない。 船でも車でも馬車でもいいけど、信仰心はそれらを前に進める推進力、駆動力だとしたとき、宗教心は舵でありハンドルであり手綱にあたる。 宗教者は「正しい舵がなければ直進しない(道徳は宗教から学べ。我々の宗教が正しいから、我々の宗教を学ばない者には道徳がない)」と言いがち。 彼らの宗教を学ばず、特定の宗教に従うことを忌避し、しかし迷信深く、道徳心がそれなりにあり、他の特定の宗教者がそれぞれ属する社会より治安がよいのだとすると、社会治安に必要な倫理観・道徳心を育むのに、宗教は必要ないのでは? ……てなる。 日本は繰り返し「より宗教的であろうとした者たち」が事件や騒擾を起こし、社会悪として失墜していった歴史があるので、特定の宗教には潜在悪という印象が強い。 悪魔の詩事件はイスラムの印象を決め、オウム真理教事件はインド仏教の印象を歪め、イエスの方舟事件はキリスト教の印象を歪めた。 「同類扱いされたら社会的に死ぬ」ので。 だから、内心に何らかの宗教を持ってる人でも人前で自分の宗教を宣言したりしない。 自分の宗教を否定されないために他人の宗教を否定しない。その結果、複数の「神様」が並存することになる。 日本の多神論的信仰感は「複数の神がいる一つの宗教」「神道」を必ずしも意味しない。 人の数だけ信じる神が別にいるなら、それらの神をそれぞれ全て肯定する。結果的に「八百万の中にアブラハムの神Godもいる」という考え方になる。 事実として異なる宗教を持つ人が同時に存在してる訳だから。アブラハムのどの宗教にも、アジア・日本は出てこない。だけど我々はいるし、彼らの宗教に定義されなくても日本の歴史・社会・今はあるわけで、別に特定の外来種の宗教に、社会を統治されなくても問題なくない?それらが後から来て大きな顔するのを認める必要ある?てなる。 まあ、だいたいそうなってる。 あと、檀家寺は自分の宗教だから行くわけではなくて、「祖先がその方法で葬られてるから尊重してる」。 日本だと九割以上が仏式で葬られ弔われるため。 神社に参拝するのは、「その土地の人が大切にしているものを尊重する」ため。 神仏どっちも「誰かの大事なもの」だから尊重するのであって、自分の大事なものであることと必ずしもイコールではない。 「自分の宗教ではないから蹂躙していい」 ということを一度でもやったら、当人、その人が信仰する宗教、その人をそういう傲慢にしたもの、それに連なるもの全てが信用を失う。表層的なつきあいは続いても、内心の心のシャッターはガチャンと閉められて終わりになる。
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