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ラサール石井事務所スタッフ
@l_ishii_office
社民党 副党首 参議院議員 ラサール石井 @bwkZhVxTlWNLSxd の事務所アカウントです。複数名のスタッフで運営しています。 財政金融委員会、消費者問題に関する特別委員会、資源エネルギー・持続可能社会に関する調査会所属。 #あなたが笑顔で暮らせる国を#
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津久井やまゆり園の犠牲者を追悼し、インクルーシブ社会をめざす集会に参加し、献花をしました。 津久井やまゆり園事件で優生思想の犠牲となった19名の方々に心から哀悼の誠を捧げます。また、負傷された26名の方々、ご遺族の方々の精神的な苦痛は容易く癒えるものではないと思います。心からお見舞いを申し上げます。 津久井やまゆり園事件をめぐる言論では、植松聖被告の人格的問題に焦点が当たりがちです。しかし、本当に問題にされなければならないのは根強く残る優生思想や隔離政策です。 津久井やまゆり園事件が示したのは、優生保護法廃止後もこの社会に根深く存在する優生思想の問題です。障がい者は社会の邪魔者である、排除されて当然であるという思想が広まっているからこそ起きた事件ではないでしょうか。 新自由主義の政策が採られる中、障がい者、貧困者、生活保護受給者をはじめとした方々へのバッシングが強まっています。社会に貢献するか等の条件をつけず、この社会に生まれたすべての人が人間として尊重される、まさに憲法第25条の理念が実現される社会を作るため、社民党は全力を尽くします。 社民党は、インクルーシブな社会をつくるPTを立ち上げ、誰も排除しない社会を作ろうと、党内で政策議論を深めています。 人間にファーストもセカンドもありません。「生きていたって仕方ない命」「死んだ方がいい命」なんてないんです。今日、この会場にいらっしゃるまで、電車やバスの乗り降りで苦労された方もいらっしゃると思います。まだまだ、バリアフリーの整備さえ道半ばです。それすなわち、インクルーシブが道半ばだということです。人間は総て、今日より明日、明日より明後日をより良い環境で生きるために存在しています。そうやって社会を変えながら、よりインクルーシブな社会を次世代に受け渡して参りましょう。 今日は、集会後、日比谷公園からデモをされたと伺っております。暑い中、アピールをされた皆様に、心から感謝と敬意を申し上げます。 #社民党# #ラサール石井#
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今日は、牛島満司令官、長勇参謀長が自刃し、沖縄戦の組織的戦闘が終わったとされる「慰霊の日」です。 住民を巻き込む凄惨な地上戦となった沖縄戦では、20万人以上の方が命を奪われました。そのうち約12万人は沖縄出身者、うち約9万4千人は民間人とされています。戦争で犠牲にされた全ての方に、心から哀悼のまことを捧げます。 沖縄戦で、かくも多くの方が犠牲にされたのは、日本が沖縄を米軍による本土上陸を先延ばしするための「捨て石」とする持久戦を採ったためです。沖縄で米軍をできるだけ長く足止めし、米軍の「出血」を強いて、「本土」を延命させよう。そのような発想のもと、首里城下に設けられた司令部が米軍に包囲されてもなお戦闘が継続されました。 とりわけ多くの方が犠牲にされたのは、5月27日に、日本軍が首里の司令部を放棄し、南部撤退を始めてからです。多くの民間人が避難した南部に日本軍が押し寄せる形になり、本来陸戦では軍民が分離されるべきところ、軍民が渾然一体となりました。日本軍は、住民が避難していた壕に入り込み、食料を強奪する、壕から住民を追い出すといった凶行に及び、米軍は火炎放射器を使った掃討戦を展開しました。 「沖縄を守るため」に来ていたはずの日本軍が住民に刃を向けた。その記憶があるからこそ、沖縄戦の最大の教訓は「軍隊は住民を守らない」ことだと伝え継がれています。 沖縄戦を戦った日本軍は大本営直轄の第32軍ですが、1944年3月に福岡で編成後、同年4月に沖縄に配置されました。「現地自活」「地方官民をして喜んで軍の作戦に寄与させる」という方針を採った第32軍は、飛行場や陣地の構築に住民を動員するなどしたため、軍民の距離は沖縄戦が始まる前から近づいていました。その中で、「生きて虜囚の辱めを受けず」といった当時の軍の規範が住民にもすり込まれることになり、強制集団死(集団自決)と呼ばれる凄惨な出来事に繋がりました。 沖縄では戦前から「方言札」の使用等を通して琉球語の使用に制限が掛けられていましたが、戦中は軍の中で「沖縄語で話す者はスパイとみなして処分せよ」という方針がとられ、そのために日本兵に殺された住民の方も少なからずいらっしゃいます。沖縄の人々に対する疑心暗鬼、スパイ視が、日本兵による凶行に拍車を掛けたと言われています。政府が「スパイ防止法」を作ろうとしている時に、顧みられるべき歴史ではないでしょうか。 全島で凄惨な地上戦が行われた沖縄の土地には、夥しい数の御遺骨が遺されました。「沖縄の復興は、まず戦没者の遺骨収集、納骨から」という言葉もあります。今も戦没者の御遺骨が遺されており、その収容が続けられています。とはいえ、身元が判明する御遺骨は少なく、沖縄中・日本中・世界中の御遺族は、今も肉親の御遺骨が一片でも帰ってくることを心待ちにしておられます。 防衛省は、辺野古新基地建設の埋立土砂を、激戦地となった沖縄島南部から採取しようという計画を立てています。このことについては、沖縄県内外で抗議の声が上がり、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さんは毎年(今年も)ハンガーストライキを決行されています。政府は、「今後の土砂の調達先は決まっていない」とはぐらかす答弁を5年以上続けていますが、その調達先を選定するに当たり、当事者たる御遺族の方の意見聴取すらまったく行っていません。 6月23日に自ら命を絶った牛島満司令官ですが、「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との命を残していました。その結果、組織的戦闘が終わってからも、戦闘が完全に停止することはなく、ゲリラ戦や住民虐殺が引き続き行われました。 また、我が国が主権を回復した後も、沖縄は米軍占領下に置かれ、「日本国憲法の番外地」として圧政の下に置かれました。沖縄戦に引き続き、再び日本(本土)は沖縄を切り捨てた訳ですが、その背景には1947年9月に昭和天皇がシーボルト連合国最高司令官政治顧問に対し琉球諸島の軍事占領の継続を望む旨を伝えたことがあるとも言われています。1972年に米軍占領が終わるまで、反米・反基地運動が強まった日本(本土)から沖縄に対する米軍施設の移動が進み、ベトナム戦争中には沖縄が出撃基地として利用されました。 1972年5月15日、いわゆる沖縄の「復帰」が果たされ、半世紀以上が経過しました。しかしながら、今なお沖縄県には日本中の米軍専用施設の約7割が集中しています。2019年2月24日の沖縄県民投票では7割を超える沖縄県民が辺野古新基地建設反対の意思を示し、辺野古新基地建設反対という民意を受けて当選した沖縄県知事が国による設計変更を不承認とするといった抵抗を行いましたが、2023年12月、日本政府は地方自治法に基づく代執行という前例のない強権発動を行い、軟弱地盤のある大浦湾側の埋め立てを強行しています。 また、与那国島から奄美大島に至るまで、「琉球弧」と呼ばれる島々に自衛隊基地の建設が強行され、敵基地攻撃能力を持つ長射程ミサイルが配備されようとしています。先島諸島については、有事が発生した際は九州各県や山口県に、家や家畜を残し、手荷物一つで避難するという計画が立てられています。 現在国会では、沖縄の15旅団を師団に格上げすることを含む防衛省設置法改定案が議論されています。ただ、格上げに伴って必要となる新たな訓練場について、一度うるま市のゴルフ場跡地に設置しようという計画があったところ、住宅地や青少年の家に近接することから、地元で大きな反対の声が上がり、当時の木原防衛大臣が計画を白紙撤回してから、今なお訓練場の具体的な候補地は示されていません。 「基地のない平和な島を返して欲しい」という沖縄の思いを、日本の政治は、社会は、きちんと受け止めてきたでしょうか。むしろ、今の政治は、沖縄の島々を一層の軍事的緊張の矢面に立たせ、過剰な負担を押しつけているのではないでしょうか。沖縄の歴史、私たちが沖縄に対して行った歴史を深く顧みる一日です。
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