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昼間たかし|新著『デジタル主権戦争』8/28発売
@quadrumviro
ルポライター。決済、SNS、クラウド、AI。すべては、人々の思考を奪い合う一つの戦争だった。英国の規制当局からロシア外務省まで世界の当事者に取材。新刊『デジタル主権戦争』(扶桑社新書)8/28発売。予約受付中。
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『みいちゃんと山田さん』最終回。 山田さんは、死んだみいちゃんを漫画にした。 そして山田さんも死んだ。 これを見て思ったのは、ニュー・ジャーナリズムが半世紀以上前に突きつけた問題だった。 ハンター・S・トンプソンはヘルズ・エンジェルスの中に入り、一緒にハーレーで走った。 しかし重要なのは「アウトローに密着したから面白い」ことではない。 外から作られた「凶悪な暴走集団」という神話も、 彼ら自身が語る「自由なアウトロー」という神話も疑い、最後には取材する自分自身まで安全圏から引きずり出した。 ところが、その精神を抜いて技法だけ真似すると、 「裏社会に潜入した」 「壮絶な人生を送った人物を追った」 「こんな数奇な運命の人間がいた」 という、黒っぽい表紙の「壮絶ノンフィクション」が出来上がる。 私は昔からこれが大嫌いだ。 他人の破滅を「壮絶な人生」という完成された物語に加工した瞬間、その人間は再び消費される対象になる。 『みいちゃんと山田さん』は、その罠から逃げ切れたのだろうか。 みいちゃんは生きている間、周囲から勝手に意味づけされ、消費され、最後には殺された。 そして死後、今度は山田さんによって「漫画の主人公」にされた。 もちろん、それを描くことは記録であり、告発でもある。 しかし同時に、みいちゃんの人生を「読める物語」に加工することでもある。 ニュー・ジャーナリズムが本当に突きつけた問いは、「対象にどこまで近づいたか」ではない。 「お前は、何者として他人の人生を書いているのか」 という、書き手自身への問いだったはずだ。 だから最終回で山田さんまで死んだことには意味がある。 山田さんだけを「みいちゃんを記録した善良な観察者」という安全地帯に置かなかった。 ただ、それでも最後に漫画は残る。 みいちゃんは死んだ。 山田さんはみいちゃんを漫画にした。 山田さんも死んだ。 そしてわれわれは、それを漫画として読んでいる。 その気持ち悪さまで含めて作品なのだとしたら、かなり意地の悪い最終回だ。 そしてノンフィクションを書く側には、まったく他人事ではない。 だから私は「制度に傷つけられた一人を見捨てない」本を書いた。
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