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正木伸城
@nobushiromasaki
イベントプロデューサー・マーケター・経営者|他、約20の事業に取締役や顧問として参画|常に3冊持ち歩く活字好き|仏教思想研究家|哲学愛好家|『監獄の誕生』が座右書|うつ病→精神病棟→36歳から本格的に社会人デビュー →3社を経て現職|著書は共著あわせて3冊既刊|献本書評も受けつけています|取材・仕事の依頼はDMにて📩
가입 September 2018
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地震のあと、SNSには流言が走る。以前、動物園から猛獣が逃げたという画像付き投稿が炎上した。結果、投稿主は偽計業務妨害の疑いで逮捕された(見せしめの逮捕だと言われている)。その他にも、人工地震とか、「外国人が治安を悪くしている」みたいな話が災害のたびに蘇るのを見かける。ぼくらはそれを「情報リテラシーの問題」として語りがちだ。しかし、話はもっと深いところにあると本書は教えてくれる。デマは情報の失敗ではなく、物語の成功なのだ、と。 本書はナラトロジー(=物語論)の知見を人生論に接続した一冊である。出発点は「あなたは『物語る動物』です」とシンプルだ。人間は「時間の前後関係」の中で世界を把握し、出来事をストーリーの形式で理解せずにはいられない動物である。これは倫理学者マッキンタイアが人間を「物語る動物」と呼んだ議論とも響き合うし、心理学者ブルーナーが、論理科学的な思考とは別に人間には物語による思考の様式が備わっていると論じたこととも重なる。物語は趣味や娯楽ではない。認知の基本フォーマットである。 そして本書の核心は、ストーリーに「なぜ」の答え、つまり因果関係が組み込まれた瞬間に、人は「わかった」という感覚を抱いてしまうという指摘にある。「わかった」という感覚は、その説明が正しいことを保証しない。出来事Aのあとに出来事Bが起きた。それだけで、ぼくらの頭はAがBの原因だという物語を勝手に組み立てる。しかもその物語が、自分の持っている一般論——世間とはこういうものだ、あの人たちはこういう人たちだといった理解——に合致していれば、快感に近い納得が生まれる。デマが拡散する仕組みは、まさにこれだ。災害という「なぜ?」の塊を前にして、不安に耐えかねた心が、手持ちの偏見と合致する因果の物語に人を飛びつかせる。災害の実態はわからない。わからないからこそ、非常時ならこういうこともあるかも? と思って流言を信じてしまう。 流言研究の古典の中でオルポートらが、流言の流通量は事態の重要さと曖昧さに比例すると定式化したのは1940年代である。物語への渇きという観点から読み直せば、あの公式は「なぜ?」が大きいほど物語の需要が高まるという話でもある。 本書がさらに面白いのは、感情の問題に踏み込むところだ。目次には「感情のホメオスタシス」「僕たちはなぜ〈かっとなって〉しまうのか?」という節題が並ぶ。本書によれば、ぼくらは出来事そのものに反応しているのではなく、出来事を自分の一般論で物語化した解釈に反応して、怒ったり傷ついたりしていると言える。「あの人が挨拶を返さなかった」という出来事と、「あの人はぼくを軽んじている」という物語のあいだには、ほんとうは飛躍がある。その飛躍を、ぼくらは飛躍と気づかずに飛んでしまう。かっとなるとき、ぼくらは現実にではなく、自作の物語に激怒している。そして、たまたま本当に挨拶が聞こえなかっただけの相手に対して、「俺を軽んじるな!」と怒りをぶちまけてしまうのである。 ただし、物語をやめて、事実だけで生きればいいのかと言えば、そこはむずかしい。哲学の世界には、人生を物語として捉える見方自体を批判する議論もある。分析哲学者ガレン・ストローソンは、人生を一貫した物語として生きるべきだという規範に異を唱え、自己を物語化しない生き方の正当性を論じた。ぼくはこの論争に一理あると思っている。物語は人間の本性だという理解と、物語に回収されない生の擁護。この緊張の中から実践の知恵がでてくる。 著者は、物語の廃棄ではなく、編集権の奪還を訴えている。具体的には「不適切な信念 = 一般論から解放される」ことが大切だという。出来事は選べない。でも、出来事をどう物語化するかの態度は変えることができる。自分がいまどんな一般論を前提に、どんな因果を勝手に補ったのかを点検する。納得しかけたときこそ疑う。それは自分の人生の語り方についても同じで、「こういう人生であるべきだった」という自作のライフストーリーに苦しめられているなら、その脚本は書き直してもいいのである。 あなたの人生の物語化を、一般論や常識に主導されたままで良いのか? 著者はそう問いかける。 物語は人生につける薬である。本書の紹介文にあるこの惹句は、裏返せば、薬には用法用量があるということだ。災害のあとに出回る雑な物語に飲み込まれないための第一歩になるのは、フェイクを見抜く技術の前に、自分が物語なしではいられない動物だと認めることである。「デマを信じる愚かな誰か」と「物語を求める私」は別の生き物ではない。同じ渇きを抱えた同じ動物だと、まず知ることである。 書籍名:人はなぜ物語を求めるのか 著者名:千野帽子 出版社:筑摩書房(ちくまプリマー新書)
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