さらに言えば、内容が切り裂くようなもの(バズり、炎上しやすい)でも、Xユーザーが嫌がりそうな事が書いてあると反応が薄く、逆もまた真である。つまり(いうまでもないけれども)Xは「掟」を持った「共同体」と見なすことができ、イコール「そこでの身の振り方」が選択でき、それが評価される。ということになる。
「郷に入っては郷に従え」とばかりに、そこで「うまく身を振るかどうか?」というのが、国旗とも天皇家とも関係ない(やがては関係するだろうけれども)<ここでの>左翼性と右翼性ではないだろうか?しかし<ここでの>というのは、どれほどの限定性を持つか。「場への適応」と「右翼性」に、どれほどの違いがあるのか?どこからが分岐点となるのか?
次のゲンロンでは、「明らかに、やりすぎなぐらいうまく身を振っている(と私は考える)」東浩紀さんに「明らかに、やり過ぎなぐらいに、身の振り方を気にしていない(好きに振る舞っている)」菊地成孔として「うまく身を振ること」の意義、理由、について問うてみたいと思う。
東氏の「うまい身の振り方」は、もはや「うまい身の振り方」を超えて、何か詩的というか、啓示を与える者のリージョンに片手がかかっていると思う。
私は、97年にPCを購入してから、何も変わっていない。私が未発達もしくは無発達だとして、東氏の<Twitterにとって「発達」とは何か?>という点には、大変な興味がある。とか言ったりして。
(菊地成孔 あとそうだなあ6億回としよう。「逆張り」と「老害」ってオレに言って良いよ若害諸君。誰だってせいぜい貯金は積み立てておくもんだ)
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