会社で働く8時間を乗り切る。
残りの16時間は食事をして、風呂に入り、家事を済ませ、眠り、翌日もまた8時間働ける状態へ自分を整えることに消えていく。
そして平日に蓄積した疲労を、土日を使って回復する。
こうなると、仕事は生活の一部ではなくなる。仕事が生活そのものになってしまう。
生活のすべてが、次の仕事を成立させるための準備と修理になり、人生の主語が「自分」ではなく「仕事」になる。
一方で、世の中のコンテンツはどんどん豊かになった。
Netflix、YouTube、Amazon Prime Video。音楽も、漫画も、ゲームも、昔よりはるかに安く、手軽に楽しめる。
私たちが子どもの頃と比べれば、現代は娯楽の楽園だ。
けれど消費社会は、その豊かな娯楽を並べながら「人生を楽しめ」「趣味を持て」「休日を充実させろ」と、こちらをせっついてくる。
楽しめるコンテンツは増えたのに、それを楽しむための時間と体力は仕事に持っていかれる。
娯楽が足りないのではない、娯楽へ向かうまでの余白が残っていないのだ。
それなのに、一人当たりGDPが下がった、生産性が低い、と語られるたび、まるで国民一人ひとりの努力が足りなと責めるかのように聞こえてくる。
生活を維持するために毎日働き、自分の時間と体力を削っている人たちに対して、社会はあまりにも失礼ではないかと思う。
余裕があれば、娯楽を楽しむだろう。
時間があれば、映画も本ももっとゆっくり味わうだろう。
仕事をしていない人に趣味があり、働いている人に趣味がないのではない。
働くことで、趣味へ向かうための体力まで使い切っているだけだ。
現代の仕事は、求めるものが多すぎる。
勤務時間だけでなく、安定した体調、感情の管理、急な残業への対応、職場での人間関係、資格の更新、自己研鑽まで求められる。
仕事のために自分を管理し、仕事のために眠り、仕事のために休日を使って回復する。
それで「自分の人生を生きている実感を持て」と言われてもあまりに仕事と生活とのバランスが悪い。
一部の若者が正社員という働き方から距離を置き、非正規や短時間労働を選び、「今を楽しめればそれでいい」と考えるのも、それは単なる甘えではないと思う。
刹那的に見える生き方は、人生のすべてを仕事へ差し出さないための防衛だ。
将来の安定と引き換えに現在をすべて失うくらいなら、今の時間を守る。
社会から投げられる理不尽を正面から受け止めず、のらりくらりとかわして生きる。
それを上の世代は「根性がない」「責任感がない」「甘えている」と言う。
けれど、本当に甘えているのはどちらだろう?
理不尽な要求をしても、黙って受け入れてくれる。
待遇を改善しなくても、人は生活のために働き続ける。
人が辞めても、また誰かを採用すればいい。
そんな前提に、社会の方が甘えてきたのではないか。
人が定着しない。
若者が正社員を避ける。
働く人が心身を壊す。
それでも延命し続ける企業に、どれだけの生産性があるのだろう?
人の心身の安全が脅かされるほど人生を削らなければ存続できない仕事を残すことが、本当に社会の豊かさなのだろうか?
もちろん、自分の仕事が誰かの役に立っていると実感し、誇りを持って働ける人もいる。仕事が好きな人間もいるだろう。
けれど、すべての仕事が分かりやすい意味を与えてくれるわけではない。
「自分の代わりはいくらでもいる」と思いながら、それでも生活のために人生を削って働いている人はたくさんいる。
だが代わりはいくらでもいると言いながら「当たり前にそのぐらい出来るだろう」と、社会が理不尽を「常識」という顔をして覆い隠し続け過ぎてはいないだろうか?
理不尽にも犠牲にも耐えたその人たちに対して、もっと働け、もっと生産性を上げろ、休日も充実させろ、心も健康でいろ、と要求する社会はあまりに失礼だと思う。
そして満たされない私たちは、小さな職場や家庭の中で、誰がより多く何かを犠牲にしているかを張り合っている。
睡眠を削った。
家族との時間を諦めた。
体調が悪くても出勤した。
休日にも仕事をした。
犠牲の大きさが、社会人として立派だと扱われる。
けれど本来問うべきなのは、誰が一番我慢したかではない。
どうすれば、人生を壊さずに働けるのかではないだろうか?
「あなたは何のために生きていますか」
そう聞かれて、質問への答えではなく、仕事や責任や生活費の話ばかりが口から出てくる社会で、心を健康に保てと言われても無理がある。
仕事が人生を支えるのではなく、人生のすべてが仕事を支えている。
その主従関係を、そろそろ真剣に考える必要があると思う。我々は奴隷では無いのだから。
显示更多