人間の子どもは、いつから水に入ることさえ、家の財布に左右されるようになったのであろうか。昔、学校のプールは夏の風物詩。消毒液の匂い、濡れた髪、足裏を焼くコンクリート、笛の音。上手い子も下手な子も同じ水に入り、同じようにむせ、同じように笑い、少しずつ水を怖がらなくなった。ところが今はどうだ?猛暑で中止。施設は老朽化。先生は多忙。安全管理は重い。外部プールを借りても、授業は数回。水遊びにはなるが、泳ぎを身体に刻むには足りぬ。すると親は思う。「このままでは泳げない」と。そして月謝を払い、スイミングスクールへ子を連れて行く。
もちろん、習い事が悪いのではない。泳げる喜びを知ることは尊い。水に顔をつけられなかった子が、一か月で水を好きになる。その変化は、親にとって涙が出るほど嬉しいものだ。
だが問題は、そこである。
泳ぐ力が、家庭の余裕で買うものになってしまえば、それはもう単なる習い事ではない。
命を守る力の格差である。
ピアノが弾けるか、英語が話せるかとは違う。
水の中で浮けるかどうかは、ときに生死の境に立つ技術である。
学校とは、本来、家の事情で失われるものを、社会が最低限支える場所であったはずだ。
裕福な家の子だけが泳げる。時間のある家の子だけが水に慣れる。待機の少ない教室へ通えた子だけが自信を持つ。その光景を、仕方ないで済ませてよいのか。
民間の力を借りるのはよい。だが丸投げではいかぬ。学校体育は、泳法を教えるだけの場所ではない。怖さを知り、助けを待ち、浮き、考え、自分の身を守る力を育てる場である。
先生と専門指導者が手を取り合い、教育としての水泳を守らねばならぬ。
水泳授業の減少は、単なる夏の風物詩の消失ではない。
それは、社会が子どもに渡してきた「いざという時の浮き輪」を、静かに手放しつつあるということである。
子どもは家庭だけで育つのではない。水の中で沈まぬ術くらい、この国全体で教えてやりたいものである。
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