人間の学校というものは、どうにも奇妙な場所である。算数では答えを間違えるなと教え、国語では相手の気持ちを考えよと教え、道徳では人を大切にせよと教える。ところが、その同じ学校で、子どもが「一緒に着替えたくない」と小さな声を上げても、教室が足りぬ、時間が足りぬ、先生が足りぬと言って、その声を後回しにしてしまうことがある。小学校の体育や水泳の授業で、男女が同じ空間で着替えている学校がまだ少なくないという。
国は男女別の更衣スペースを求め、プライベートゾーンを大切にする教育も始まっている。
それなのに現場では、低学年だから、昔からそうだから、場所がないから、という理由で、子どもの恥ずかしさが軽く扱われている。
だが、恥ずかしいという感情は、わがままではない。
それは、自分の身体は自分のものである、という最初の境界線である。
ここから先は見られたくない。
ここから先は踏み込まれたくない。
その感覚を大切にされて初めて、子どもは他人の境界線も大切にできるようになる。
大人はよく言う。
「子どもだから気にしない」
「低学年ならまだ大丈夫」
しかし、それは大人が気にしていないだけである。
子どもは言葉にできぬだけで、ちゃんと見られることを知っている。
比べられることを知っている。
嫌だと言えば空気を悪くするかもしれないと、黙ることまで覚えてしまう。
恐ろしいのは、着替えそのものではない。嫌だと言えない環境に慣れさせてしまうことである。
もちろん学校にも事情はある。
空き教室は少ない。時間割は詰まっている。
教員はすでに限界まで働いている。
だが、だからこそこれは個々の先生の努力だけに押しつけてはいけない。自治体が実態を把握し、学校が仕切りやカーテンや時間差を工夫し、保護者もまた「それくらい」と流さず、子どもの尊厳を守る仕組みに変えねばならぬ。
更衣室がないなら、知恵を出す。
時間がないなら、優先順位を変える。
教員が足りないなら、制度として支える。
子どもの身体の安心は、余った時間で配慮するものではない。
教育の土台である。
学校とは、ただ知識を教える場所ではない。
自分の身体を大切にしていいのだと、子どもが最初に社会から教わる場所でもある。
その場所で「嫌だ」という声が聞き流されるなら、どれほど立派な教科書を並べても、教育はどこかでほころびている。
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