取材帰り、あたしは、雨宿りを兼ねて町角の小さなパン屋へ入った。朝から何も食べていなかった。閉店間際の棚に残っていたのは、丸いあんパンが一個だけ。表面には白胡麻が散り、まだ少し温かそうだった。「よかった……」あたしが手を伸ばした時、隣に小さな女の子が立っていることに気づいた。髪も上着も雨に濡れ、手のひらには数枚の硬貨が握られていた。女の子は何度も硬貨を数え、値札を見て、また数え直した。
「足りないの?」
尋ねると、女の子は恥ずかしそうにうなずいた。
「今日、お母さんと喧嘩したの。でも、お母さんはこれが好きだから……夜のお仕事へ行く前に渡して、ごめんなさいって言いたかったの」
あたしはあんパンから静かに手を離した。そして不足分の硬貨をレジへ置いた。
「この子にお願いします」
「でも、お姉ちゃんも食べたかったんでしょう?」
「私は大人だから我慢できるわ。それに、仲直りは焼きたてのうちが一番よ」
女の子の顔に、店の灯りより温かな笑顔が浮かんだ。
その時、奥から店主が大きなトレーを持って現れた。雨で客が少なく、焼き上がりが遅れていた二回目のあんパンだった。
「優しいお客さんを空腹のまま帰したら、パン屋の名折れです」
店主はあたしにも、焼きたてを一つ差し出した。
店を出ると、雨はまだ降っていた。クレアは傘へ女の子を招き入れ、二人で並んで歩いた。
「優しいことをすると、必ず返ってくるの?」
女の子が聞いた。
少し考えてから答えた。
「必ずではないわ。返ってこないことのほうが多いかもしれない。それでも誰かに優しくできるから、優しさには意味があるの」
二人の手には、同じ湯気を立てるあんパンがあった。
世界を変えるほどの出来事ではない。
けれど一個のあんパンが、母と娘を仲直りさせ、一人の空腹を満たし、雨の夜に二人分の笑顔を灯した。
大きな希望とは案外、こうした小さな丸い形をしているのかもしれない。
※特定を避けるため、実体験の内容を大幅に変えてます。
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