編者は「はじめに」でこう書いている。「哲学と人類学をそれぞれに異なる『研究分野』と考えるのではなく、むしろ互いに『外』との関わりにおいて自らを問い直し、そのことで変容しつづけてきた思考の実践としてとらえ、その現代的な意義を確認することを主たる関心としている」。分野ではなく実践、この置き換えが本書の姿勢を決めていると思う。
本書は九章からなる論文集で、扱われるのはレヴィ=ストロースの構造主義、ラトゥールのアクターネットワーク理論、デスコラの自然観の類型論、ヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴ主義、そしてマルチスピーシーズ人類学といった議論だ。ひとまとめに存在論的転回(=人間の文化的な解釈の違いではなく、そもそも何が存在するかの捉え方の違いとして他者の世界を扱う潮流)と呼ばれる動きに日本語で見取り図を与えた仕事である。
ぼくが面白いと感じたのは、構造という古い言葉が、自然という言葉と組まれた途端に息を吹き返すところだ。
構造主義はかつて、人間の文化の背後にある無意識の秩序を取り出す方法だった。神話の多様性の下に共通の変換規則を見出す。この手法は、これまで乗り越えられた過去として扱われることがあった。だが、自然と人間の境界が問い直されはじめると構造は別の顔を見せる。人間の側にだけ秩序があるという前提が外れるからだ。
これは抽象的な話に見えて、そうでもない。
たとえばぼくらは、動物に感情があるかを議論するとき、たいてい人間の感情を基準に置く。犬が喜んでいるように見える、という言い方をする。ここでは人間が唯一の物差しで、他の生きものはその近似として測られている。存在論的転回が問うたのは、この物差しの独占だった。もし相手の世界の側から見たら、何が世界の中心に置かれているのか――この視点はとても大事で、それは「他者を理解するとは自分の枠に相手を収めることではなく、自分の枠のほうが特殊だと認めること」だということを教えてくれる。
この構えは、人間同士の関係にもそのまま持ち込める。
ぼくらは日常的に、噛み合わない相手に対して二つの態度しか用意していない。相手が間違っているとするか、価値観の違いだねと言って議論を畳むか。前者は暴力的で、後者は一見寛容に見えて、実は相手を理解の対象から外している。どちらも自分の枠を守るための手続きだ。
本書が示すのは第三の道である。相手の世界の組み立て方に付き合ってみて、その結果として自分の組み立て方が変わることを引き受ける。編者の言う「変容しつづけてきた思考の実践」とは、たぶんそういうことだ。
これは疲れる。時間もかかる。だから制度化された議論の場では、まず採用されない。会議もSNSも選挙も、そんな悠長な手続きを許す設計にはなっていない。それでも、「自分がこれまで『理解』と呼んでいたものの大半は、相手を自分の語彙に翻訳し終えた状態のことだったのだ」という気づきは重要だと思った。多様性とか異文化交流というのは、生ぬるいスローガンではなく、まさにこの困難に挑む地獄の道だからである。
理解とは、自分が変わることの別名だったのだ。
変わらずに済んだのなら、それは理解ではなく、たぶん分類である。
『構造と自然 哲学と人類学の交錯』檜垣立哉・山崎吾郎編著(勁草書房)
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