『みいちゃんと山田さん』が叩かれて、『ヤニねこ』が比較的許されている理由のひとつは、「かわいそう」の有無だと思う。
みいちゃんは、ヤニねコよりも全体的に可愛らしく、幼く、健気に描かれている。だから読者は、彼女が酷い目に遭えば「かわいそう」と感じる。
ところが同時に、みいちゃん自身の身勝手さや加害性、周囲の忠告を聞かず破滅していく姿も描かれる。そのため作品は、彼女を社会や環境の被害者として見せながら、「でも自業自得でもあるよね」という視線も読者に与えてしまう。
ここに居心地の悪さが生まれる。
「助けられなかった弱者の悲劇」を描いているようにも、「かわいそうな人が愚かな行動を重ねて酷い目に遭う様子」を見世物にしているようにも読めるからだ。
つまり批判されているのは、単にみいちゃんが酷い目に遭うからではない。読者に同情させる造形をしたうえで、その人物の愚かさや破滅を娯楽として差し出しているように見えるからだと思う。
一方、ヤニねこも可愛い見た目ではあるが、作品は最初から彼女を「かわいそうな弱者」として扱わない。
不潔で、迷惑で、他責的で、酷い目に遭ってもだいたい本人が悪い。本人が「ニャーは何も悪くない」と嘆くほど、読者には「いや、お前が悪いだろ」と分かるように作られている。
ヤニねこにも貧困や依存、自堕落といった現実的な要素はある。しかし作品はそれを悲劇や社会問題として意味づけず、徹底してギャグの因果応報に変換する。
だから読者は安心して笑える。
みいちゃんは「かわいそうなのに笑ってよいのか」が最後まで曖昧だが、ヤニねこは「こいつなら笑ってよい」という合意が作品と読者の間で最初から成立している。
両者の違いは、キャラクターが自業自得かどうかではない。
みいちゃんは、被害者として同情させながら、自業自得として突き放される。
ヤニねこは、自業自得に振り切ることで、そもそも被害者として読ませない。
「かわいそう」を喚起する作品ほど、そのかわいそうさを娯楽にしていないか厳しく見られる。みいちゃんが叩かれ、ヤニねこが笑って受け入れられやすい差は、そこにあるのではないか。
でも「かわいそう」じゃないように描けば気にしない人たちってどうなんだろうね
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