ここでフランス映画の現実と、それにまつわる株式と債権の話までするね。
日本映画との差はどこにあるかという構造の話です。
いま、フランスとの合作を自己資本で進めていて、以前よりはっきり見えてきたことがある。日本に欠けているものだ。
あの『レオン』のリュック・ベッソンは、パリ郊外に巨大な撮影スタジオ「シテ・デュ・シネマ」を構想したとき、公的機関や行政、民間企業まで巻き込み、都市開発のレベルで動かした。
個人の映画作家が、経済政策にまで食い込んだ。「個人が構造を作った」例だ。半導体でいうファウンドリです。
フランス映画は「公助で成り立っている」とよく言われる。このCNC(フランス国立映画映像センター)を参考にすべきだという提言も耳にする。
でも、実際に現場を見ると、重要なのは補助金の額ではない。CNCの意義は、補助金そのものではなく、市場と製作を結ぶ回路を制度として設計したことにある。
これは、映画館のチケット、テレビ放送、配信など、市場で生まれた収益の一部を、映画製作へ自動的に循環させる仕組みだ。
つまり、今日の満腹が、明日の料理人を養う。そんな循環が、制度として組み込まれている。
国が市場のキャッシュを循環させる回路を設計した。
Netflixも、フランスでは制度上、国内売上の一部をフランスや欧州作品へ投資する義務を負っている。市場の収益を製作へ戻すという発想は、CNCの回路設計と共通している。
フランス映画製作の本質とは、補助金ではなく強制的リサイクル市場ということにある。
日本に欠けているのは、補助金の額ではない。
この回路の設計だ。
例えば、昨夏もパリでエキストラを一人雇うだけでも、そこには報酬や契約の厳密なルールがあり、日本で散見する人々の好意や篤志だけでは現場は回らない。資料にサインも当然しなくてはならない。
映画が契約で動く以上、資金もまた、どんな回路で流れるのかが問われる。
つまり、細かいことを言うと、国の補助金で映画を作るというのは、文化の未来を財政に預けるという意味で「債券の世界に身を置く」ことに少し似ている。
守られているように見えても、その未来は、財政や金利といった、自分では動かせない変数に左右される。
金利が上がれば財政の余力は縮み、文化予算は真っ先に圧力を受けやすい。
そこに矛盾がある。
何故?
「映画は、本来、株式に近い。」
一本ごとの成否が大きく分かれる、ハイリスク・ハイリターンの世界で、当たれば大きな価値を生み、外せばゼロになる。
整理するとこれ。
補助金=債券(外部変数に左右される)
リスクマネー=株式(成果に応じて変動する)
だから、その本質に見合うのは、リスクを引き受ける資本との接続だ。
もちろん、公的支援は必要。アーカイブや教育、地域文化など、市場だけでは支えきれない領域は存在する。
しかし、映画そのものを生み出す資本まで補助金だけに委ねてしまえば、文化の未来は、財政や金利という外部要因に縛られ続けることになる。
必要なのは、国か市場かという二者択一ではない。映画の性格にふさわしい資本の回路を設計することなのではないか。
文化は作品だけでは育たない。作品へ挑戦できる資本の仕組みまで設計して、初めて文化は持続する。
フランスが強いのは、映画を株式として扱いながら、キャッシュフローはインデックス化(市場全体に連動させて薄く広く循環)していることにある。
日本の問題は、単発ファイナンスであることで、つまり、キャッシュが文化に戻らない。
これがボトルネックなんですよ。
国立映画アーカイブも、運営母体である独立行政法人国立美術館も、文化を支える「回路」の設計まで視野に入れたとき、初めて未来への持続性が見えてくる。
文化は作品ではなく、成功と失敗の両方を再投資できる構造、すなわち複利の回路で決まる。
日本映画の「踏み込めなさ」の正体が、ここです。
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