「悪口を言うときは、大きな声で!」とは某提督の名言だけども、やっぱり私は、大きな声で悪口を言うやつを信用しない。
ウガリト神話を検索していたら、思いがけないページに飛んだ。それは聖書を経典とする、ある新興宗教のHPだった。
いわく、『この神々を崇拝することは下劣な結果を招く』
『ウガリトには聖書のような倫理的・道徳的な高みがない』
カッチーン💢
「なんやと、コラぁ…」って私の中の石倉三郎が顔を出しそう。
気に入らないのは仕方がない。それはその人の自由。
でも、書き方が良くない。
人が大事にしているものを絶対的な誤りと決めつけて、いかにも学術的に自分が正しいように語っていたから。
事前知識がない人は本当だと信じてしまうんだから、卑怯なやり口だ。フェアじゃない。
…と、イライラしたとき、私は必ず心配になる。
「自分は大丈夫か?」と。
例えば私にも、大きな声で悪口を言ってもいいと思う話題がある。
児童婚や女子割礼。
野蛮で冷酷な習慣だと思っているし、今すぐなくなれと思っている。
じゃあ
あの新興宗教と私、何が違うか?
“他人が大事にしているもの/文化/習慣を否定している”という点では、同じに見える。
しかし一方で、全く違うとも私は言いたい。
その違いは、「自由かどうか」。
ウガリトの神々を邪悪と呼ぶのは、信仰の自由を踏みにじる➡️NG
児童婚への批判は、子どもや女性の選択の自由を守るため➡️OK
よかった!やっぱり私は正しい!何も間違ってない!
…と思ったけど、
では彼らがなぜ嬉々としてあんな侮辱的な解説(ウガリト神話は下劣うんぬん)を書くのか。
彼らの正義に思いを馳せてみる🧐
たぶん彼らも、彼らなりに、人々を守っているつもりなんだろう。
私が児童婚や女子割礼で苦しむ子を助けたいと思うのと同じように、唯一の正しい信仰を伝えることが、彼らにとっての人助けだから。
それはもちろん聖書の問題じゃなくて、ある仏教の宗派の人にそう断言されたこともある。
その人は社会的には「良い人」で、歓喜天を信仰する私を”邪悪な道から救おう”と必死だった。
少女漫画みたいに目をキラキラさせながら
「大丈夫!いつかあなたもその魔道から目が覚める時がきっと来る✨」
なんて言っていた。
何が魔道じゃ💢カッチーン💢
つまりは、
大きな声で悪口を言うとき、人は大体、悪口を言っているつもりはない。
良かれと思い、何かを守っているつもりでいるのかも。
なら、せめて私は、反対意見にカチンときたときは、相手が何を守っているつもりなのかを、一度考えようと思う。
自分がいつの間にか、嬉々として悪口を言う側に回っていないか、確かめるために。
…で、例の新興宗教のHPをもう一度よく読んだけど、ほんとカチンとくるわ💢💢💢
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