【超雑記】
ボイトレのコーチを初めて今年で9年目ですが、教える側にとってレッスンはかなりアイデア勝負だなと思う側面が多いです。
たくさん勉強して知識を頭に詰め込んでも、それが生徒さんに伝わらなければ、もっというなら生徒さんの声が、人生が変わらなければ私の頭の中のものは意味を持たない。
同じ事を伝えようとしても、いろいろなやり方を試してやっと10個目で伝わることもある。
思ったよりアドリブだしかなりライブ感の強い職業で、何ならアイドルだった時代より今の方がライブだなぁ、生だなぁと感じます。
目の前で起こっている事象(高い声が出ないとか、大きい声が出ないとか何でも良い)に対し
『では何故それが起こっていてどうやって解決したら良いか』
というのを導き貸し出すため、まずセオリーを学び始めると、セオリーの型多くね⁉︎と目眩がしてきます。
その後ほどなくしてセオリーがいかに当てはまらない世界かという事をこれでもかと思い知らされ、握っていたペンを投げたくなります。
それでもやはり少しでも再現性を上げるためにセオリーは必要不可欠。
ともすれば見逃しちゃうような少しの可能性ですら仮説に組み入れないといけないわけで、つまり必要な体系的知識が海のように広い事に半ば絶望しそうになります。
まだまだ歴も知識も浅い若輩者がこんな事を言うのも烏滸がましいですが、
まぁなんとも恐ろしい業界に来てしまいました。
10個も伝え方を考えようとすると、自ずと自分が過去に敬遠してきた伝え方にも着手せざるを得ない時が来ます。
これまで「頭から声を出して〜」的な、いわゆる感覚論的なものや、気合いと根性論は再現性の低さやある意味コンプラ的な意味を含めあまり好んで来ませんでした。
私のレッスンの中で感覚論が出るとしたら
それはやり方としてこちらから提示するのではなくて、あくまで私が科学的な手段で導いた結果起きた現象に対し、本人に感覚的にわかりやすい名前をつけてもらって、先生と生徒の共通言語として使う場合がほとんどでした。
例えば命名「ふわふわちゃん」だとしたら
「この音でふわふわちゃん出して〜!ふわふわちゃんをもうちょっとキューってして!」とかね。これが「頭から声が出ています」の時もあるし「光が見えます」とかのこともある。
みんな面白い表現をしてくれるので大変興味深いです。
今でもこの、感覚論は手段というよりは結論に近いという考えはあるので第一選択として出てくることはあまり無いにしろ、たくさん試して上手くいかない場合に突然登場させたりします。
もちろんその前にいくつか試した段階で少しずつコツを掴んで、たまたま到達できたのが感覚論の時だったという、積み重ねや数のズルというのはあるかも知れないけど。
どんな人にも伝わるために、エビデンスをたくさん集めてそれ頼りに進めてきましたが、それだけでは壁にぶち当たるぞと言う時に意外と感覚論や根性論に救われることもままあります。
あんなに勉強したのに頭から声出して〜で解決できちゃやってらんねぇなの気持ちを宇宙の彼方に放り投げ
自分の固定観念やプライドとの折り合いをつけた方が、穏やかかつ急速に目標に手が届くこともあるんだと知りました。
特に、超初心者・天才・理論をまぁまぁ知っている頭でっかちには結構効く気がします。
頭から声を出してほしいと思ったきっかけというか、その考えに至ったベースに先ほどの体系的な知識というものが埋め込まれているため悔しさは微塵もありません。
むしろその伝え方を選ぶことができた自分に歴史を感じ、誇らしいとすらちょっと思ってます。
私が今後磨いていくべきはベースの知識や技術はもちろんですが
・伝える力
・信頼してもらう力
この二つものすごく大切だな〜としみじみ感じています。
的確に伝えたい事を伝えるための語彙や、イメージを共有する力、その子に刺さる言い方を探る観察力
そして、先生の言う事なら信じてやってみたいと思っていただくための、一貫性と全て受け入れる懐が欲しいです。
講師としての成長はもろに人としての成長の課題が詰め込まれているなと思います。
まだまだですが、逆にまだまだと思うと、この先時間をかけて己を熟成させていく事が楽しみだし
それにより笑顔になれる生徒さんが増えていくとしたらそれはもっともっと楽しみです。
思うところがあり最近ほんの少しだけレッスンのスタイルを変えているのですが
とにかくこちらが疲れます。魂を削っている感じがするからです。でも以前より生徒さんの変化を感じる事が増えた気がするので、プラスの方がぜーんぜんデカいです。
これからも魂削るぞーッ!
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