でっ、ちょっとキツい言い方をすると…。
「みいちゃんと山田さん」に限らず、無意識のうちに属性をキャラクター化することは、その属性のイメージを固定化し、結果として差別や偏見の入り口になり得ます。
Xなどで同作を好意的に受け止めている人の中には、「みいちゃんを差別に利用する人が悪い。許せない!」という声もあります。もちろん、その気持ちは理解できます。
でも、私は「なぜ差別に利用されるのか」という構造まで考える必要があると思っています。
そして興味深いのは、多くの感想が「みいちゃん」という一人のキャラクターではなく、「こういう人いるよね」という、顔の見えない存在へと置き換わってしまっていることです。
つまり、「発達障害や知的障害の人にはこういう人がいる」という類型として受け止め、それを無意識のうちに反芻している人が少なくありません。
しかし、現実の発達障害や知的障害のある人は、当たり前ですが一人ひとりがユニークな存在です。
だからこそ、フィクションであっても、キャラクターはできるだけ「その人にしかなれない人物」として描かれるべきだと、私は考えています。
私がこの考えに至ったきっかけは、『ビッグバン★セオリー』のシェルドンというキャラクターでした。
彼には発達障害的な特徴があると語られることが多い一方で、私はそこに差別性を感じません。それは、彼が「発達障害を代表するキャラクター」としてではなく、「シェルドン」という一人の人間として描かれているからです。
属性を前面に押し出したキャラクターは、その属性のイメージを固定化し、差別や偏見の文脈で利用されやすくなります。
差別は、多くの場合、
「○○の人って、ああいう人だよね。」
という、一人の人間を属性へ還元するところから始まります。
もちろん、属性に固有の困難や社会的課題は存在します。
でも、その問題を描きたいのであれば、なおさら大切なのは、その属性の人たちを「一人ひとり異なるユニークな個人」として描くことではないでしょうか。
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