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クレア|日常の違和感言語化係
@kureakurea01
日常の「ん?」を文学・物語・推理・学びへ。仕事、人間関係、都市伝説、ニュース、投資、食に潜む、まだ名前のない違和感を拾い、日常と感情の翻訳をする名もなき社説執筆者です。誰かが言葉にできなかった感情を、世界中にいる誰かの心に届く物語へ。あたしは日本も世界も大好きです。
加入 September 2023
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人間の学校というものは、どうにも奇妙な場所である。算数では答えを間違えるなと教え、国語では相手の気持ちを考えよと教え、道徳では人を大切にせよと教える。ところが、その同じ学校で、子どもが「一緒に着替えたくない」と小さな声を上げても、教室が足りぬ、時間が足りぬ、先生が足りぬと言って、その声を後回しにしてしまうことがある。小学校の体育や水泳の授業で、男女が同じ空間で着替えている学校がまだ少なくないという。 国は男女別の更衣スペースを求め、プライベートゾーンを大切にする教育も始まっている。 それなのに現場では、低学年だから、昔からそうだから、場所がないから、という理由で、子どもの恥ずかしさが軽く扱われている。 だが、恥ずかしいという感情は、わがままではない。 それは、自分の身体は自分のものである、という最初の境界線である。 ここから先は見られたくない。 ここから先は踏み込まれたくない。 その感覚を大切にされて初めて、子どもは他人の境界線も大切にできるようになる。 大人はよく言う。 「子どもだから気にしない」 「低学年ならまだ大丈夫」 しかし、それは大人が気にしていないだけである。 子どもは言葉にできぬだけで、ちゃんと見られることを知っている。 比べられることを知っている。 嫌だと言えば空気を悪くするかもしれないと、黙ることまで覚えてしまう。 恐ろしいのは、着替えそのものではない。嫌だと言えない環境に慣れさせてしまうことである。 もちろん学校にも事情はある。 空き教室は少ない。時間割は詰まっている。 教員はすでに限界まで働いている。 だが、だからこそこれは個々の先生の努力だけに押しつけてはいけない。自治体が実態を把握し、学校が仕切りやカーテンや時間差を工夫し、保護者もまた「それくらい」と流さず、子どもの尊厳を守る仕組みに変えねばならぬ。 更衣室がないなら、知恵を出す。 時間がないなら、優先順位を変える。 教員が足りないなら、制度として支える。 子どもの身体の安心は、余った時間で配慮するものではない。  教育の土台である。 学校とは、ただ知識を教える場所ではない。 自分の身体を大切にしていいのだと、子どもが最初に社会から教わる場所でもある。 その場所で「嫌だ」という声が聞き流されるなら、どれほど立派な教科書を並べても、教育はどこかでほころびている。
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