放課後の教室で、一人の女の子が先生に告げた。「悪口を言われるのが、つらいです」。翌日、先生はクラス全員に「仲間外れはいけません」と話した。正しい言葉であった。だが、誰が訴えたのかは、子どもたちにはすぐ分かった。悪口は止んだ。代わりに、会話も止んだ。休み時間、彼女の机の周りだけが、ぽっかりと空いた。皆は叱られるのを恐れ、彼に近づかなくなったのである。ある日、誰かが遠くから彼女の失敗を心の底から笑った。彼女は少し黙ってから、
「そうそう、あたしはどうせ、こういう役だから」
と、自分まで笑った。
すると皆は安心したように戻ってきた。
肩を叩き、恵という名前をグミというあだ名を呼び、再び輪の中へ入れた。彼女は「これでよかった」と笑っていた。
だがあたしには分かった。
彼女は、いじられることを好きになったのではない。孤独よりは痛みのある席を選んだだけである。
大人は「また仲良くなれた」と胸を撫で下ろす。けれど、笑われる自分を差し出さなければ居場所を得られない関係を、仲良しと呼んでよいものか。
相談した勇気が孤立に変わり、我慢した演技が友情に見える。
人間の教室では、ときどき解決した問題ほど、静かに悪化しているのである。
ただ、彼女は文学少女で、漫画、カラオケ、演技が好きなのに、コミュ力に関しては完全なるロースペックであった。周りが話してることがわからない、流れや空気がわからない、だからえへへと笑うしかない。
彼女は今、ほぼ全ての学生時代の交流を捨てて、テレビにも出る女優さんとなってる。学校時代にいじられてても、大人になってもどう化けるのかはわからない。
教室では、その笑顔を天然と呼んだ。
誰かにからかわれても、えへへ。
失敗を笑われても、えへへ。
本当は傷ついていても、えへへ。
彼女は知らぬ間に、自分を守るための役を演じていたのである。
やがて卒業すると、彼女はほとんどすべての学友との縁を捨てた。連絡先を変え、同窓会にも出ず、教室で使っていた笑い方まで置いていった。
数年後、テレビの中で彼女を見た。
そこには、あの空気の読めない少女はいなかった。恋人を失った女の沈黙を演じ、母を憎む娘の涙を流し、たった一度の視線で物語の温度を変えていた。
教室では読めなかった空気を、彼女は脚本の中なら誰より深く読めたのである。
昔の同級生たちは言った。
「意外だよね。あの子、昔はいじられキャラだったのに」
しかし、あたしは思う。
意外なのではない。誰も見ていなかっただけなのだ。
彼女は笑われる才能があったのではない。
笑われながらも、他人の表情を観察し、言葉の裏側を読み、胸の痛みを物語へ変える才能を育てていたのである。
学校という狭い舞台では、彼女に与えられた役は変な子一つしかなかった。
だが、舞台が変われば役も変わる。
教室でうまく生きられなかった少女が、いまでは画面の向こうで、うまく生きられない人々の心を演じている。
人間は、学生時代の配役だけでは分からない。
あの頃、笑いものにされた少女が、いつか大勢を泣かせる女優になることもある。
人生とは、卒業してから始まる長いオーディションなのかもしれない。
※彼女が、誰かなのか、特定されないように、内容をかなり変えてます。
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