日本は、核兵器が戦争で使用された唯一の国である。広島と長崎を「最初で最後」にせよ。その祈りは、人類が守らねばならぬ最低限の約束であろう。ところで、劣化ウラン弾を小さな核兵器と呼ぶのは、科学的には正しくない。核分裂による爆発も、原爆のような熱線も生じない。あくまで装甲を貫くための通常兵器である。しかしあたしは思う。「核兵器ではない」という分類が、ただちに「何の問題もない」という免罪符になるのも妙な話ではないか。
劣化ウランは、天然ウランより放射能が弱いとはいえ、放射性と化学毒性を併せ持つ重金属である。
砲弾が戦車などへ命中すると、微細な粉じんが生じることがあり、吸い込んだり体内へ取り込んだりする危険、残骸や土壌、地下水への長期的影響が問題となる。国連環境計画も、その性質と戦後環境への影響を調査してきた。
もちろん、劣化ウラン弾が広範な健康被害やがんの増加を引き起こすと、科学的に断定されたわけではない。
国際機関の調査では、多くの地域で放射線学的リスクは小さいとの評価もある。
一方で、破片への接触回避、汚染地点の把握と除染、地下水の監視などは必要とされ、長期的影響には不確実性が残る。国連総会も2024年、使用地点の情報提供や研究の継続を各国へ求めている。
兵器とは、爆発した瞬間だけ人を殺すものではない。
撃った兵士が帰国し、ニュースが次の戦争へ移ったあとも、土地には金属片が残る。そこで遊ぶ子どもも、井戸を掘る農民も、その弾を選んではいない。
「原爆ほどではない」「核兵器ではない」。
人間は、より大きな惨禍と比べることで、小さく見える惨禍を許す癖がある。だが戦場に暮らす者にとって、被害に大も小もないのである。
広島と長崎を最後にするとは、原爆だけを二度と落とさないことではない。
戦争が終わった後まで、名も知らぬ誰かに毒と恐怖を相続させる兵器を、一つずつ疑うことでもある。
あたしは、勝者が帰った後も土だけが敗者であり続ける戦争を、平和とは呼べぬことくらいは知っている。
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