元陸上自衛官の五ノ井里奈さんは、男性隊員らから受けた性被害を実名で告発した。防衛省は調査によって性暴力を含むセクハラを認定し、関係者を処分。刑事裁判では元隊員三人の有罪が確定し、2026年1月には最後の民事訴訟で和解が成立した。防衛省の調査資料によれば、所属中隊を中心に約百人への聞き取りが行われている。だが、あたしが最も恐ろしく思うのは、加害そのものだけではない。助けを求めた者を守るはずの組織が、集団で口裏を合わせ、訴えた側を孤独にしたことである。
国を守る訓練を受けた者たちが、仲間を守らず、組織の体面を守った。そのとき防衛されたのは国民ではなく、加害を見過ごしてきた空気であった。
世間は彼女を勇気ある告発者と呼ぶ。
もちろん勇気はあった。
しかし本来、被害を訴えるために人生を懸けるほどの勇気など、誰にも要求してはならない。
勇気ある女性が社会を変えたという美談だけで終われば、次の被害者にも同じ孤独と英雄役を押しつけることになる。
裁判が終わった後も、心は判決文のように「以上」で閉じられない。
勝ったから元に戻れるわけでも、謝罪されたから眠れるわけでもない。
事実が認められるまでに費やした時間、疑われた屈辱、奪われた職業、壊された人間関係には、完全な返還命令など出せないのである。
そして今、彼女はスコーンを焼いている。
裁判終結後もどん底でもがき、新しい仕事へたどり着いたという。
あたしはこの姿を安易に「苦難を乗り越えた成功物語」にはしたくない。傷つけられた人が笑顔を見せたからといって、傷つけた社会の責任が消えるわけではないからだ。
ただ、スコーンというものは面白い。押し潰された生地も、静かな熱の中で、もう一度ふくらむ。
けれど忘れてはならない。
彼女が強くなるために、あの苦しみが必要だったのではない。
彼女は苦しみのおかげで立ち直ったのではなく、苦しみに人生の続きを奪わせなかったのである。
店頭に並んでいるのは、美談ではない。
誰にも屈服しなかった一人の女性が、自分の手へ取り戻した普通の一日である。
真の再発防止とは、次の被害者にも五ノ井さんほど強くなれと求めることではない。
強くなくても訴えられ、実名をさらさなくても守られ、一人で巨大な組織と闘わなくても事実が認められる仕組みをつくることだ。
あたしも、スコーンの甘い香りに誘われて店先まで来たが、そこで見たのは勝利の勲章ではなかった。ようやく彼女自身のものになった、人生の続きであった。
元陸上自衛官の五ノ井里奈さんがパティシエールとして働き、スコーンを焼いているお店。
名前「The Scone's Meow」
場所、東京都練馬区
西武池袋線・中村橋駅から徒歩2分。
店舗名、The Scone's Meow(ザ スコーンズ ミャオ)
住所、東京都練馬区貫井2丁目2-4(中村橋駅 から徒歩約2分)
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