年金制度は破綻しないという言葉には、一種のレトリックがある。年金の振り込みが続く限り、制度上は破綻していないと言える。だが円安や物価高でお金の価値が下がり、受給額が暮らしの上昇に追いつかなければ、同じ一万円で買えるものは減っていく。昨日まで十日分買えた食料が、明日は八日分になる。薬代や光熱費を払えば、肉や魚を諦める。制度は動いているのに、生活は少しずつ止まっていく。それは「橋は壊れていない」と説明しながら、橋の先が向こう岸まで届いていないようなものだ。
財政上の破綻と、生活上の破綻は違う。
国は前者だけを否定して安心を語るが、国民が恐れているのは後者である。
支給されるかだけではなく、その金額で何を買えるのかが問われている💡
もちろん、自分で備えることも大切だ。
貯蓄や資産形成を否定する必要はない。
しかし、それを社会保障の代用品にしてはいけない。
投資には元手がいる。
元手には余裕がいる。
その余裕を持てない人に「なぜ投資しなかった」と問うのは、泳げない者に浮輪を売りつけ、買えなかった責任を溺れた本人に負わせるようなものだ。
必要なのは、官僚を悪者にすることでも、高齢者だけを特別扱いすることでもない。
物価に負けない最低限の所得保障、住居や医療を含めた支援、若い世代が無理なく備えられる賃金と仕組みを同時に整えることである。
現役世代と高齢者を「奪う側」と「奪われる側」に分ければ、喜ぶのは責任を逃れたい者だけだ。
今日の若者も、いつか高齢者になる。
高齢者が安心して消費できれば、そのお金は地域の店や働く世代にも戻ってくる。
社会保障とは、弱い者を一方的に養う制度ではない。誰もが弱くなる日のために、元気な時の自分たちが共同で用意する灯である。
人間は金だけを積み立てて生きているのではない。
子どもを育てた時間。
病人に付き添った夜。
誰かのために働いた年月。
それらも社会を支えた、見えない積立金である。
年金制度を守るとは、帳簿を存続させることではない。その見えない積立に、老後の安心で応えることだ。
橋が残っているだけでは足りない。疲れた人も、足の遅い人も、手を取り合って向こう岸まで渡れる橋にしなければならない。
あたしは信じている。
国の制度は冷たい数字から生まれても、人の痛みを知ることで温かく変えられる。
老後を自己責任の荒野にせず、長く生きたことを皆で祝える国へ。
それこそが、未来の自分自身に贈る、最も大きな愛なのである。
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