社会保障には、困窮してから助けるだけでなく、困窮しにくい人を育てる役割もある。若い時期の教育、職業訓練、働きながら学び直せる仕組みに公費を投じる。これは将来の納税者を育て、生産性を高める社会全体の先行投資である。だが人間は、良い政策を見つけると、すぐ万能薬にしたがる。学び直せば、誰もが高所得になれるわけではない。病気や障害を抱える人、家族を介護する人、育児で仕事を離れた人、産業そのものが衰退した地域に暮らす人もいる。
そうした人へ「学び直さなかった自己責任だ」と言えば、事前投資という希望は、困窮者を裁く新しい物差しに変わってしまう。
教育と救済は、どちらか一方ではない。
人間社会を呼吸させる二つの肺である。
所得や資産をデータで把握し、必要な給付を申請前に届けるデジタルガバナンスも有効だろう。
生活が苦しい人ほど、複雑な書類をそろえ、何度も窓口へ行く余力がない。助けを求める声を待つのではなく、制度の側から手を差し伸べる発想は正しい。
しかし、国民の財布だけを透明にして、国の財布を曇りガラスの向こうに隠してはならぬ。
何のためにデータを集めるのか。
誰が閲覧できるのか。誤った判定を訂正できるのか。
不正利用を誰が監視するのか。
税金が何に使われ、どんな効果があったのか。
そこまで公開して初めて、監視ではなく信頼になる。
外国人材との共生も同じ。
人手不足を埋める安価な労働力として扱えば、日本人の賃金まで押し下げ、社会の分断を深める。国籍にかかわらず、同じ仕事には相応の賃金、安全、教育、地域参加の機会を保障しなければならない。
現役世代と高齢者、日本人と外国人、納税者と受給者を敵同士にすれば、責任を逃れたい者だけが得をする。
今日の若者は明日の高齢者であり、元気な納税者も明日は病気になるかもしれない。
社会保障とは、弱い誰かを養う制度ではない。いつか弱くなる自分へ、元気な時の自分たちが送る仕送りである。
猫でも、寒い夜、仲間と身を寄せれば、一匹では耐えられない冷気にも耐えられることは知っている。
国家も同じではないか。
この国が立て直すべき最初の資本は、税率でも新技術でもない。
「真面目に生きていれば、困った日に見捨てられない」
国民がそう信じられる心である。
信頼とは、政府が国民に要求するものではない。政府が誠実さを積み重ね、国民から預けてもらうものなのだ。
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