深夜十一時四十七分。オフィスに残っていたのは、あたしと、机より高く積み上がった書類だけだった。窓の向こうでは、終電へ急ぐ人々が小さな光の粒になって流れている。「今日も終電終わったコースね……」冷え切ったコーヒーを飲み、ため息をついた。仕事が嫌いなわけではない。むしろ、頼まれたことには応えたかった。「クレアなら大丈夫」その言葉がうれしくて、断れない仕事を一つずつ引き受けているうちに、いつの間にか「大丈夫な人」でいることが、彼女の仕事になっていた。
そのとき、寝てしまい、不思議な夢を見た。ここはオフィス、給湯室の奥から小さな機械音が聞こえた。
現れたのは、古びた清掃ロボットだった。両手で大きな赤いボタンを差し出している。
ボタンの上には、ただ一言。
「押すな」
「いちばん押したくなる書き方ね」
あたしが指先で触れた瞬間、オフィスの照明が一斉に消えた。
パソコンの画面には、
「強制退勤モード」
という文字が浮かび、ロボットは散らばった書類を猛烈な勢いで棚へ押し込み始めた。最後に鍵をかけると、今度はあたしの背中を出口へ押す。
「えっ、ちょっと!? まだ終わってないの!」
ロボットは答えない。
ただ、彼女を会社の外まで運び出した。
気づけばあたしは、夜の公園にいた。
仕方なくコンビニで買ったアイスを食べながら空を見上げると、ビルの隙間に細い月が浮かんでいた。
こんな時間に空を見るのは、いつ以来だろう。
隣に座ったロボットが、小さな札を掲げる。
「明日やれ」
クレアは思わず笑った。
明日に回した書類は、確かに残っている。けれど会社は爆発していない。街も止まっていない。世界は何事もなかったように回り続けている。
「世界は、残業しなくても回ってた」
ロボットの目が、うれしそうに弧を描いた。
その夜、あたしは夢の中で初めて気づいた。
仕事を明日に残すことは、怠けることではない。自分を明日まで残すことなのだ。気がついたら、朝になっていた。
そして、あの赤いボタンの押すなは、命令ではなかったのかもしれない。頑張りすぎる人だけに向けられた、不器用な救難信号だったのである。
顯示更多