クレアは、塩の味で目が覚めた。舌の裏に、夜の残りがある。水を飲んでも落ちない。落ちない味を、この街の者は昔から知っている。知っていると言葉にはしない。還りの祭が近い朝は、誰の喉も少し重い。重いことを、風のせいだと言う。街は泥の上に建っていた。城の跡はもう地図にない。あるのは井戸と、壁に残った一文と、底が熱くなる夜の呼び名だけだ。文は読めなかった。読めないのではなく、読む役の者が、文を一つにまとめてから祀るようになった。分かたれた、の字は削られている。まま一つ、だけが残っている。
クレアは削られた跡に、指を置いた。
跡はざらついて、ざらつきの下に別の線がある。線は文句ではない。熱が壁を白くしたとき、ひとりでに浮いたものの痕だ。痕を辿ると、空の向きと、地の向きと、もう一つ、喉の奥へ折れる向きがある。三つめは、祈りの文句に入っていない。入っていないものを、クレアは子供のころから夢で見ていた。
夢では、口が二つある。
一つは空を向いて咳をする。
一つは血のほうを向いて、名前を借りたがる。借りたがる相手はクレアではない。クレアの隣にいる誰かだ。夢の中のクレアは、それを止める役でも、渡す役でもない。塩を舐めたあとに残る、記録の側にいる。
祭の前日、井戸の番人が匙を磨いていた。
「底は今年、早い」と番人は言った。
早い理由は聞かない決まりだ。聞いた者は、次の還りまで井戸へ入る。クレアは聞かないかわりに、磨かれた匙の縁を見た。縁に、白い粉が一つ残っている。粉は塩に似て、塩より古い。
「舐めるな」と番人は言った。
言ったときには、クレアの指がすでに粉を払っていた。払った粉は風に乗らない。指の腹に貼りつき、貼りついた場所から、熱の記憶が上ってくる。海が白くなる夜。
城の壁が光の色になる夜。誰かの肺が閉じる直前、半拍だけ他の血へ移るもの。
クレアは自分の記憶ではないそれを、自分の喉の奥に置かれた。置く意志はなかった。置かれたあとの重さだけが、自分のものだった。
夜、底が鳴った。
鳴りは街まで届かない。
届いたのは、塩を知る喉だけだった。クレアの舌の裏が熱を持ち、熱の向こうに殻の厚みが見えた。厚みの内側で、何かが産みたがっている。
外側で、何かが名を借りたがっている。二つの願いは喧嘩しない。同じ夜を選んでいるだけだ。
壁の文が、暗がりで一度だけ完全になった。
削られた字が戻るのではない。
戻るのは、削る前に熱が書いたほうの文だ。クレアはそれを読まなかった。
読むと、街の呼び名が壊れる。還りは一つであるほうが、匙を渡しやすい。渡しやすいものを壊す役を、クレアは望んでいない。
望んでいないまま、夢の口がこちらを向いた。
空の口は、次の闇をすでに選んでいる。地の口は、この街の芯が冷える速度を数えている。
どちらの口も、クレアの名は知らない。知るのは味だけだ。味は記録で、記録は運ばれる。運ばれる先に、まだ乾いていない字がある。
クレアは井戸の縁に座り、塩の落ちない朝を待った。
待っているあいだ、街の誰も知らないことが、喉の奥でだけ確かになった。還るものは神ではない。神に見えているのは、分かれた手順が同じ夜に重なった結果だ。結果の名を、壁はまだ持っていない。持たないまま次の空が熱を持ち、熱を持った空のどこかで、別の骨が同じ味に目を覚ます。
その骨が自分だと、クレアは思わなかった。思わなかったことが、たぶん、記録の条件だった。
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