善悪の感覚はどこから生じているのか。それは、進化の過程でぼくらの体に刻み込まれたものなのだろうか。本書がまさにその謎に挑む。たとえば血縁選択の理論では、利他行動は「血縁者を助けることで自分の遺伝子を残す戦略」として説明された。だが、著者のウィルソンは晩年、この血縁選択だけでは説明しきれないものがあると考えるようになる。そこで持ち出したのが、「群選択」あるいは「マルチレベル選択」という考え方だった。
その主張はこう要約できる。
進化は個体どうしの競争という一つのレベルだけで進むのではない。集団と集団の競争という、もう一つのレベルでも進む。集団の内部だけを見れば、利己的な個体のほうが得をする。ズルをする者、タダ乗りする者が有利だ。しかし、利他的な個体を多く含む集団はまとまりができ、利己的な個体ばかりの集団との争いに勝つ。つまり、個体のレベルでは利己が勝ち、集団のレベルでは利他が勝つ。この二つの力がせめぎ合いながら生物は進化してきた。これがウィルソンの説である。
ぼくらの心の中には、自分の利益を優先しようとする声と、仲間のために尽くそうとする声が両方ある。それは意志の弱さでも性格の表れでもない。二つの進化のレベルが、ぼくらの内側でいまなお戦い続けているのだ。
繰り返し言う。
集団の内部では利己的な個体が利他的な個体に勝つ。だが、利他的な個体を含む集団は利己的な個体ばかりの集団に勝つ。
この見立てなら、人間という存在のあの厄介な二面性が説明できる。ぼくらはなぜ、これほど利己的でありながら、これほど利他的なのか。なぜ裏切りもすれば自己犠牲もするのか。聖人にもなれば悪党にもなる。その分裂は、欠陥ではない。二つのレベルの淘汰を同時にくぐり抜けてきた生き物の、いわば設計上の宿命なのだ。ウィルソンは人間の条件をこの永遠の内戦として描き出した。
ぼくらの利他心は、幻想ではない。誰かのために身を削るあの衝動は、後から取ってつけた道徳の飾りではなく、進化がぼくらの深部に刻み込んだ本物の性質である可能性が高い。少なくともウィルソンは、その仮説から「善悪の感覚は進化に由来する」という方向に進む。もちろん、ウィルソンの説の正しさはまだ証明されていない。ただ、彼の提示した仮説がぼくらの道徳的判断のルーツに迫るための足がかりになった。
道徳は、明文化される以前に、欲望と本能に根ざしている。風習や文化がそこに味付けをしている。この構造がとても面白い。
ご関心のある方は、ぜひ本書を直に読んでみてほしい。
『ヒトの社会の起源は動物たちが知っている 「利他心」の進化論』エドワード・O・ウィルソン著、小林由香利訳、NHK出版
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