「多様性が大切」と言っている人同士が互いを認めず中傷し合っているのをよく見かける。多様性という言葉を「自分の意見を押し通すため」に利用している場面も見かける。わがままな自分を「多様性」という言葉で飾って、でも実際は「自分に都合のいい多様性しか認めない」という人もいる。そういった自身の不純さを「まず認識すべきでは?」と、カール・ポパーが昔から指摘していた。
「みんな違ってみんないい」と言われる一方で、「許容してよい度合い」はやはり個々人や文化、場面で違う。たとえば、それぞれを認めるにしても加害者と被害者を両論併記的に同列に扱ってしまってはいけないし、被害者を優先的に大切にしなければいけないという倫理は、社会を成り立たせるために当然必要。また、多様性を語るときには必ず「多様性を認めない人の多様性も認めるべきか」という議論もしなければならない。時には「多様性を蹂躙する人の非寛容さを認める訳には絶対にいかない」という判断をし、他者を場外に追い出すことの負い目を背負わなければいけない場面もある。
そもそも「みんな違ってみんないい」のだとして、加害者がいいと言っていいのか? という議論はやはりすべきである。つまりそれは「非寛容な人にも寛容であるべきか?」という古典的な問いに答えなければいけないケースで、ポパーはそのあたりを結構、明確に論じている。
「無制限の寛容は確実に寛容の消失を招く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる」
「ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を」
『開かれた社会とその敵』
著者:カール・ポパー
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