配慮のあった環境から配慮のない環境に移った瞬間に落ちてしまう、という現象は実際によく起きているように思います
ただ、これは叱らなくなったことの結果というよりは、叱るか叱らないかの2択で教育を考えてきたことの結果であるように思います
教育の分野では『足場かけ』と呼ばれる概念があります
子供がまだ一人ではできないことに、大人が一時的な支えで手助けする、という当たり前のことではありますが、重要なのはこの足場は必ず外すことを前提に組む、ということです
支えながらも支えを減らしていく、という手順が重要で、ただただ支えをとある瞬間から打ち切ってしまうと、そのまま支えの差分を落下してしまう
例えば、忘れ物を繰り返してしまう子供に対して、
・足場を用意する行為:親が予備を用意しておく、学校で借りられるようにお願いしておく
・足場を外す行為:持ち物を前の晩に写真で撮らせる、持ち物のチェック表を作って確認するルーティンを付けさせる
このような形で、短期的な不利益を防ぐ『足場を用意する行為』、長期的に独り立ちを助ける『足場を外す行為』はセットで行われないといけません
またその際、叱る行為の有無は関係ありません
厳しくするか優しくするかという単純な二元論ではなく、どこまで足場を用意して、どこから足場を外すかという複雑で曖昧な部分こそ議論されて欲しいと思います
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例えば「忘れ物をする」といった、我々の時代にはどんな理由があれ「悪」とみなされてガミガミ言われていた事が、今の時代では「人間なんだから忘れるのは仕方ない」とか「そんな事で叱るな」という形に変わってきた。
そして「子供達が忘れ物をする前提で予備を用意しろ」、「今時忘れ物しても借りられるんだから良いだろ」といった意見まで出てくるようになり、「忘れる」という行為が「悪」から「普通」に格上げ(格下げ?)されてしまった。
それに加えて、最近は発達障害という言葉もかなり広がり、「どんなに頑張っても忘れ物をなくす事が出来ない子がいる」というのも多くの人に認知されてきた。
そういう子に注意する事は不適切な指導とみなされるようになり、指導側もそういう気がある子には「臭い物に蓋をする」という形で何も言わない。
では、大学や社会はそれを許してくれるかというとそんな事はない。
「レポートを期限までに出し忘れる」、「履修登録をやり忘れる」、「水道代や電気代を払い忘れる」、このような「やるのを忘れる」という事に対してとても厳しく、その結果「単位がもらえない」、「電気を止められる」といった事が起こる。
それを「やっちゃった🤪」と戯けられる子はまだ良いだろう。
しかし、今の子達はこういう所はとても真面目なので、今の大人達が思ってる何倍も重く受け止めてしまう。
しかも今までは周りの人達になんとかしてもらってそういう失敗をしてこなかった分、初めての失敗によるダメージは計り知れない。
「叱らない教育」に代表される、過度に子供達に優しくする令和の教育が引き起こした最悪の形だと思う。
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