『みいちゃんと山田さん』最終回。
山田さんは、死んだみいちゃんを漫画にした。
そして山田さんも死んだ。
これを見て思ったのは、ニュー・ジャーナリズムが半世紀以上前に突きつけた問題だった。
ハンター・S・トンプソンはヘルズ・エンジェルスの中に入り、一緒にハーレーで走った。
しかし重要なのは「アウトローに密着したから面白い」ことではない。
外から作られた「凶悪な暴走集団」という神話も、
彼ら自身が語る「自由なアウトロー」という神話も疑い、最後には取材する自分自身まで安全圏から引きずり出した。
ところが、その精神を抜いて技法だけ真似すると、
「裏社会に潜入した」
「壮絶な人生を送った人物を追った」
「こんな数奇な運命の人間がいた」
という、黒っぽい表紙の「壮絶ノンフィクション」が出来上がる。
私は昔からこれが大嫌いだ。
他人の破滅を「壮絶な人生」という完成された物語に加工した瞬間、その人間は再び消費される対象になる。
『みいちゃんと山田さん』は、その罠から逃げ切れたのだろうか。
みいちゃんは生きている間、周囲から勝手に意味づけされ、消費され、最後には殺された。
そして死後、今度は山田さんによって「漫画の主人公」にされた。
もちろん、それを描くことは記録であり、告発でもある。
しかし同時に、みいちゃんの人生を「読める物語」に加工することでもある。
ニュー・ジャーナリズムが本当に突きつけた問いは、「対象にどこまで近づいたか」ではない。
「お前は、何者として他人の人生を書いているのか」
という、書き手自身への問いだったはずだ。
だから最終回で山田さんまで死んだことには意味がある。
山田さんだけを「みいちゃんを記録した善良な観察者」という安全地帯に置かなかった。
ただ、それでも最後に漫画は残る。
みいちゃんは死んだ。
山田さんはみいちゃんを漫画にした。
山田さんも死んだ。
そしてわれわれは、それを漫画として読んでいる。
その気持ち悪さまで含めて作品なのだとしたら、かなり意地の悪い最終回だ。
そしてノンフィクションを書く側には、まったく他人事ではない。
だから私は「制度に傷つけられた一人を見捨てない」本を書いた。
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