批判を目的とした批判は、何も生み出しません。
もちろん、間違いを指摘すること自体は必要です。行政でも企業でも、組織でも家庭でも、問題を見て見ぬふりをすれば、被害は広がり、同じことが繰り返されます。
だから批判そのものを悪いものだと言いたいわけではありません。
ただ、「誰かを叩くこと」が目的になった瞬間、その言葉は問題を解決する力を失います。
失言を切り取り、過去の失敗を何度も掘り返し、相手が謝っても「まだ足りない」と責め続ける。そこにあるのが改善への願いではなく、怒りのはけ口や優越感だけなら、最後に残るのは対立と疲弊です。
批判には、本来、次の一歩をつくる役割があります。
何が問題だったのか。
誰にどんな影響があったのか。
どう直せば同じ失敗を減らせるのか。
責任を持つ人は、何を説明すべきなのか。
ここまで考えて初めて、批判は社会を少しでも良くする言葉になります。
反対に、「あの人は嫌いだ」「失敗したから終わりだ」という言葉だけでは、何も前に進みません。相手を黙らせることには成功しても、制度も現場も暮らしも改善されないままです。
私たちは、怒るべきときには怒っていい。疑問を持ったときには、きちんと問いかけていい。権力や影響力のある立場の人には、なおさら説明責任を求めるべきです。
でも、その先に「では、どうすればよくなるのか」という視点を置きたいと思います。
批判は、相手を傷つけるための武器ではありません。問題を見える形にし、改善を促し、次の被害を防ぐための道具です。
言葉が強くなるほど、目的を見失いやすくなります。だからこそ、自分の言葉が何を生むのかを、一度だけでも考えたい。
誰かを倒したあとに何も残らない批判より、少しでも社会を前に進める批判を選びたいと思います。
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