試写で『#
温泉シャーク2# 九州大決戦』拝見したので簡潔に感想を。
サメ映画史を追う者として、まずは歴史的な背景について触れさせてください。サメ映画50年の歴史の中で、様々なサメ映画が生まれ、先人たちは道なき道を切り拓いてきました。「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」、そう魯迅は『故郷』で語りましたが、これはサメ映画の歴史そのものと言えます。
『ジョーズ』の軛からサメを解放したのは、『シャークネード』であるのは周知の通りです。恐怖の象徴だったサメは、竜巻に乗って空を飛び、人々に笑いをもたらすエンターテイナーに姿を変えました。その頃からサメ映画におけるサメはシリアスなキラーと不条理なコメディアンという、『ダブルヘッド・ジョーズ』さながらに2つの顔を持つようになります。
『シャークネード』が切り拓いた道には、サメであることをやめた後進が次々に現れました。しかし、これは一つの陥穽でもあったのです。ハイコンセプトな方向に舵を切ったサメ映画たちの前には、常に『シャークネード』が立ちはだかりました。極限まで予算を削りゲリラ戦に身を投じたZ級サメ映画たちは隆盛しましたが、一般的な視聴に耐えうる予算をかけながら、『シャークネード』ほどに正気を失えたサメ映画は、結局その続編しかありませんでした。ニーチェが「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」と述べたように、解放者はいつのまにか大きな壁になっていたのです。
『シャークネード』の本質は、 “ありえなさの追究” にあります。ネード世界ではたまたま海を泳いでいた大量のサメが巨大ハリケーンに巻き上げられ人々の上に降り注ぎます。やがてサメを伴った台風は勢力を増し、宇宙に進出したり世界を滅ぼしたり時空を超えるようになっていきます。目の前で起こる信じられない事態が、視聴者を置き去りにして全力で明後日の方向に駆け抜けていくことの快感。それこそが数多くのシャークネーダーを産んだ原動力でした。そしてその快感の高みこそが、後続にとっての壁になっていたのです。
こんな分厚い壁に極東から立ち向かったのが、米国生まれのサメ映画という概念を見事にローカライズした『温泉シャーク』です。日本に深く根付いた温泉文化をベースに、特撮でサメ映画を撮るという試みは、サメ映画界隈のみならず多くの賛同者を生み出しました。ありえない嘘を真剣につき、時たま嘘をつくことを諦める姿勢には、確かにサメ映画スピリットが宿っています。
前作の時点で『温泉シャーク』はサメ映画界の絶対王者の玉座に手を伸ばすことが出来ていたと思います。しかしこの『温泉シャーク2』は、その王位を奪い取ってしまいました。本作は九州全土を舞台にし、筋肉、特撮、サメ、キャスト、音楽、あらゆる点でスケールアップしていますが、特筆すべきは正気を疑う脚本です。ひとたび本編が始まれば、観客に思考は許されません。「なんて?」「なんで?」「そうなの!?」「そっかぁ!」という知能剥奪サイクルが数十セットも繰り返されることで、観客は温泉シャークの世界にのめり込むように調教されていきます。そしていつの間にか、訳の分からない展開を手に汗握りながら見守ることしか出来なくなっていくのです。常識という名の森には上映開始数分で火が放たれ、中盤には焼け野原となり、それでも何かが燃え続け、最後には素晴らしいテーマ曲とともに「いやなんか凄いものを観た気がするけどこれは何?」という大きな疑問と感動が残ります。
これからご覧になる方は、ぜひどのシーンでもいいので人に説明してみてください。あり得なさすぎて誰も信じないと思います。そんな信じがたいことが88分間、連続で起こり続けます。もちろん前作を観てからの鑑賞をお勧めしますが、そういう感じの作品なのでスタート地点は結局同じです。「まずは予習してから」などと宣う非温泉シャーク者をバシバシ劇場に連れ込み、思うがままに蹂躙される九州に頭を抱えさせてください。
サメ映画の魅力は、「思いついたことを映画にしてみる」というクリエイティビティの爆発にありますが、狂人でなければ思いつかないことを映画にされては、もはや我々に打つ手はありません。その意味で、『温泉シャーク2』はサメ映画の王を名乗っても決して不遜ではないでしょう。
『BAD CGI SHARKS 電脳鮫』という作品では、「サメ映画の歴史は『ジョーズ2』から始まった」と語られていますが、『温泉シャーク2』は新たなサメ映画の歴史を開闢したのです。ですが果たして、温泉シャーク製作陣はいまや自分たちが新たな怪物と化したことに気づいているのでしょうか。サメ映画の道は常に獣道です。付き合わされる観客も、たまったもんじゃないですよね。