登録して招待リンクを共有すると、動画再生報酬と紹介報酬を獲得できます。

検索結果 ままならぬままごと』(
ままならぬままごと』( コミュニティ
1つのキーワードが1つのコミュニティです。
コミュニティ作成
アカウント
見つかりません
ままならぬままごと』( を含む検索結果
こういうムチャクチャ暑い時に限って、外を歩く用事があるという。ままならぬ。
発行枚数がピークの4分の1でもマイナカード予算膨張、1枚2000円超の国費発行に財務省が「待った」→2027年度は約445億円、前年比ならぬ前年度比で70億円増を要求 月480万枚の発行能力を維持したまま、実績とのズレが膨らんでいます。
もっと見る
先ほど電気工事の方々到着し、無事復旧。 しかし電話は不通のまま。こっちはまた原因が別か。 然ればこれを機に、人生初の携帯電話を所持という流れにはならぬので。携帯電話なければ勿論ライン不可、SM不可なれば、面倒な場面無きにしもあらず、然れど電話を持ち歩く煩わしさを思えば、全く問題なし。
もっと見る
三十年も賃金という主菜が増えていないのに、社会保険料という会計だけは年々重くなっている。それでも役所は「将来の安心のためです」と説明する。だが、今日の夕飯を減らして将来に備え続ければ、将来が来る前に暮らしが痩せてしまう。問題は負担率だけではない。所得という分母が育たなかったことだ。給料が二倍になれば一万円の負担増にも耐えられるが、給料が据え置かれたまま物価と保険料だけが上がれば、千円の増加さえ重い。 ゆえに社会保障改革と賃上げ、経済成長は別々に語れない。負担の分け方を変えるだけでは、空になった鍋の中身は増えないのである。 全世代型社会保障という考え方にも、一理ある。 人間は年齢だけで豊かさを判断したがるが、裕福な高齢者もいれば、奨学金と家賃に追われる若者もいる。年齢で一律に区切るより、所得や資産を含めた負担能力で考えるほうが公平だろう。 しかし、現役世代の社会保険料を下げ、その穴を消費税で埋めれば全て解決するわけではない。 同じ一割でも、月収二十万円の人と二百万円の人では痛みが違う。富裕層が我慢するのは高級料理かもしれないが、低所得者が削るのは食事や暖房、子どもの靴である。 消費税を主軸に据えるなら、低所得層への給付や税額控除、生活必需品への配慮と一体でなければならない。 金融所得や大きな資産にも、無理のない範囲で応分の負担を求める必要がある。 全世代で支えるという美しい言葉を、全員から今より多く取るという意味にすり替えてはならぬ。 公平とは全員の皿から同じ量を取ることではない。 大皿を抱える者には少し多くお願いし、パン一切れしかない者には、その一切れを残すことだ。 社会保障とは、負担を均等にする仕組みではない。 不安を小さくし、人が再び立ち上がれるようにする仕組みである。 空の皿から、さらに取ってはいけない。 まずは働く者の皿に、賃金という料理を戻すことから始めるべきなのだ。
もっと見る
人間の子どもは、いつから水に入ることさえ、家の財布に左右されるようになったのであろうか。昔、学校のプールは夏の風物詩。消毒液の匂い、濡れた髪、足裏を焼くコンクリート、笛の音。上手い子も下手な子も同じ水に入り、同じようにむせ、同じように笑い、少しずつ水を怖がらなくなった。ところが今はどうだ?猛暑で中止。施設は老朽化。先生は多忙。安全管理は重い。外部プールを借りても、授業は数回。水遊びにはなるが、泳ぎを身体に刻むには足りぬ。すると親は思う。「このままでは泳げない」と。そして月謝を払い、スイミングスクールへ子を連れて行く。 もちろん、習い事が悪いのではない。泳げる喜びを知ることは尊い。水に顔をつけられなかった子が、一か月で水を好きになる。その変化は、親にとって涙が出るほど嬉しいものだ。 だが問題は、そこである。 泳ぐ力が、家庭の余裕で買うものになってしまえば、それはもう単なる習い事ではない。 命を守る力の格差である。 ピアノが弾けるか、英語が話せるかとは違う。 水の中で浮けるかどうかは、ときに生死の境に立つ技術である。 学校とは、本来、家の事情で失われるものを、社会が最低限支える場所であったはずだ。 裕福な家の子だけが泳げる。時間のある家の子だけが水に慣れる。待機の少ない教室へ通えた子だけが自信を持つ。その光景を、仕方ないで済ませてよいのか。 民間の力を借りるのはよい。だが丸投げではいかぬ。学校体育は、泳法を教えるだけの場所ではない。怖さを知り、助けを待ち、浮き、考え、自分の身を守る力を育てる場である。 先生と専門指導者が手を取り合い、教育としての水泳を守らねばならぬ。 水泳授業の減少は、単なる夏の風物詩の消失ではない。 それは、社会が子どもに渡してきた「いざという時の浮き輪」を、静かに手放しつつあるということである。 子どもは家庭だけで育つのではない。水の中で沈まぬ術くらい、この国全体で教えてやりたいものである。
もっと見る
ほんのりキュアウェーブヘアー🩵💚 (アプリのバキバキ加工が取れなくてそのままでごめんなさい🙏🏻) 興奮冷めやらぬ!ですね🌺 おばあちゃんになってもWOW!とアロ〜ハを歌えるように準備っと… せっかくなら、今回歌えなかった曲とかもいつかの為に準備しておこう☺️ #ハピネスチャージプリキュア#
もっと見る
批判を目的とした批判は、何も生み出しません。 もちろん、間違いを指摘すること自体は必要です。行政でも企業でも、組織でも家庭でも、問題を見て見ぬふりをすれば、被害は広がり、同じことが繰り返されます。 だから批判そのものを悪いものだと言いたいわけではありません。 ただ、「誰かを叩くこと」が目的になった瞬間、その言葉は問題を解決する力を失います。 失言を切り取り、過去の失敗を何度も掘り返し、相手が謝っても「まだ足りない」と責め続ける。そこにあるのが改善への願いではなく、怒りのはけ口や優越感だけなら、最後に残るのは対立と疲弊です。 批判には、本来、次の一歩をつくる役割があります。 何が問題だったのか。 誰にどんな影響があったのか。 どう直せば同じ失敗を減らせるのか。 責任を持つ人は、何を説明すべきなのか。 ここまで考えて初めて、批判は社会を少しでも良くする言葉になります。 反対に、「あの人は嫌いだ」「失敗したから終わりだ」という言葉だけでは、何も前に進みません。相手を黙らせることには成功しても、制度も現場も暮らしも改善されないままです。 私たちは、怒るべきときには怒っていい。疑問を持ったときには、きちんと問いかけていい。権力や影響力のある立場の人には、なおさら説明責任を求めるべきです。 でも、その先に「では、どうすればよくなるのか」という視点を置きたいと思います。 批判は、相手を傷つけるための武器ではありません。問題を見える形にし、改善を促し、次の被害を防ぐための道具です。 言葉が強くなるほど、目的を見失いやすくなります。だからこそ、自分の言葉が何を生むのかを、一度だけでも考えたい。 誰かを倒したあとに何も残らない批判より、少しでも社会を前に進める批判を選びたいと思います。
もっと見る