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『誰がために憲法はある』井上淳一監督 お誕生おめでとうございます!
『どうすればよかったか?』『誰がために憲法はある』長岡上映会終了
🎦明日8/15㊏のスケジュール🎦 『おばあちゃんの秘密』+舞台挨拶 10:00 『誰がために憲法はある』+舞台挨拶 12:15  『黒川の女たち』14:00 『野火』15:50 『ユマカウンティの行き止まり』17:30 『劇場版 ほんとうにあった怖い話 ゾクゾク変な間取り』19:15 『BREAK SHOT』20:45
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本日、『どうすればよかったか?』『誰がために憲法はある+井上淳一監督トーク』開催
#国会正門前大行動0519# に宮古島から参加した女性のスピーチです。 きょう飛行機に乗って宮古島から来ました。国会議事堂前駅から歩いてきて、この光景を見て涙が止まらなくなりました。島の中で声を上げたり、島の中でのたたかいは、少人数で孤独なものだったりするので、こうやってたくさんの人たちが同じ思いを持って集まってるんだっていうのを見て、本当に涙が止まらなくなってスピーチもちゃんと話せるかなって不安です。 今日は発言の場を与えていただきありがとうございます。高市政権が軍拡、憲法改悪を推し進めようという流れの中、皆さんの中で、いま自分が住んでいる場所で戦争が起こって、そこにはもう住めなくなるかもしれないという不安を感じている人はどれぐらいいますか? いま、宮古島、石垣島、与那国島をはじめとする先島諸島では、台湾有事を前提として島民12万人を九州、山口に避難させるという全島避難計画が進められています。信じられますか? どれくらい具体的な計画かというと、私の住む宮古島市は鹿児島県鹿児島市に避難することまで決まっています。3辺の合計100センチ以下の手荷物1つで1か月間鹿児島のホテルに滞在し、その後そこでの就学や就労の支援計画まで始まっています。このような計画を、国をはじめとして沖縄県、宮古島市も異議を唱えることなく計画を立てています。 私たち住民の気持ちは置き去りにされています。私たちは今、生活を根こそぎ奪われるということが戦争以上に怖いです。そもそもなぜ国外問題である台湾有事で先島諸島が戦場にされなければならないのでしょうか?  なぜ先島諸島の人々の生活を奪って、そこを戦場にして戦争することが国を守るということなんでしょうか? その中に私たち先島諸島の人々は入ってますか? 国際法であるジュネーブ諸条約では軍民分離ということが決まっていて、住民がいる場所では戦争できないのです。アメリカは批准していませんが、日本は批准しているので守らなければなりません。有事の前に避難させるということは、戦争をするために住民が邪魔だから避難させるのではないでしょうか? 戦争を前提とした避難に従うことは戦争協力であると私は考えています。 そして、一度避難して島が戦場にされたら、もう島に戻ることはできないのは容易に想像できます。地続きではない島の復興はほぼ不可能です。つまり、これは島外避難などではない強制疎開です。島に残りたいと言っても、避難は強制ではないが、ライフラインが止められるというのが市の説明です。それは強制に等しいです。このようなことが今の日本で行われようとしています。島外避難したくないというと、命が大事じゃないのかということを言われます。もちろん命が大事です。でも、憲法25条では、単に生きるだけではなく、人としての尊厳を保った健康で文化的な最低限度の生活が認められています。また、憲法22条では、自己の意思に反して移動しない自由、住み続ける自由が保障されています。しかし、すでに私たちの権利は脅かされようとしていて、それが当然のことのように語られています。いま目の前にある憲法を守らせることさえできていないのに、改憲するなんて許されることではありません。憲法はすでに沖縄の人々を守らなくなって久しいです。いま大切なのは憲法改正ではなく、権力者に憲法を守らせることです。 先島諸島の島々では、その島独自の文化の中で人々は生きています。島によって言葉も違う、唄も違う、織物も違う。その島にしかない大切なものを次世代につなごうと大切に守りながら生きています。福島の原発事故で故郷を奪われた人々がいます。故郷を失うということがどれだけ大きなものを失うということなのか、私たちはもう知っていると思います。ただ生きていればいい。そんなことを誰が言えるでしょうか? この島に生き続けたい。この当たり前の切実な願いを、戦争という愚かなことのためにどうか踏みにじらないでほしい。 (※文責=井上伸)
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【声明】81回目の敗戦の日を迎えて(いのちの党 2026年8月15日) すべてのいのちが守られる社会のために 2026年8月15日、私たちは81回目の敗戦の日を迎えました。 戦争によって命を奪われたすべてのみなさまに、深い哀悼の意を表します。また、ご遺族のみなさまに、心よりお見舞いを申し上げます。 戦争で失われるのは、統計に表される数だけではありません。家族と過ごす時間、学ぶ機会、働く場、住み慣れた地域、医療や介護を受ける安心、そして未来そのものが奪われます。 とりわけ、障害のある人、医療的ケアを必要とする人、高齢者、子ども、妊産婦、病気を抱える人、生活に困難を抱える人、外国にルーツを持つ人など、避難や支援へのアクセスが難しい人々ほど、戦争と災害の被害を深く受けます。 私たちは、重度障害のある国会議員を擁する政党として、政治が見落としがちな人々の声を、政治の中心に置きます。 戦争の記憶を、いのちを守る政治へ 第二次世界大戦では、日本の軍人・軍属と民間人を合わせ、約310万人が犠牲になったとされてきました。近年では、約376万人にのぼるとの推計も示されています。アジア太平洋地域でも、1千万人から2千万人もの命が奪われました。 政治指導者が国策を誤り、外に敵を求める空気を広げ、植民地支配と侵略戦争を拡大した結果です。日本の国民もまた、命や暮らし、自由を奪われ、戦争に動員されました。 戦争の時代には、障害のある人や病気を抱える人、子ども、高齢者など、支援を必要とする人々の命と尊厳が後回しにされがちです。「役に立つか」「効率的か」という物差しによって、人の命の価値に差をつける考え方が広がれば、社会は深く傷つきます。 この歴史を振り返るのは、過去を責め続けるためではありません。同じ過ちを繰り返さず、誰も置き去りにしない政治につなげるためです。 脅威を冷静に見極める 高市政権は「戦後最も厳しい安全保障環境」と説明し、軍備の拡大を進めています。 しかし、ミサイルを増やし、米軍との一体化を深めることが、そのまま地域の安全につながるとは限りません。一方の軍備拡大が相手の警戒を招き、さらなる軍拡へと連鎖する「安全保障のジレンマ」もあります。 1950年代末の米国では、ソ連が米国を大きく上回る数の大陸間弾道ミサイルを保有しているという「ミサイル・ギャップ論」が広がりました。この議論は、軍関係者や政治勢力、防衛産業が大規模なミサイル開発や予算を求める根拠となりました。しかし、後にソ連の能力は大幅に過大評価されていたことが明らかになりました。 脅威の評価が軍事予算や産業上の利益と結びつけば、実際の危険を冷静に検証するより、軍備拡大を正当化する議論が先行するおそれがあります。客観的な情報と幅広い議論に基づき、外交と対話の可能性を最後まで大切にすることが必要です。 防衛産業の利益より、いのちを守る判断を 政府は、防衛産業を経済成長を牽引するリーディング産業と位置づけ、「安全保障と経済成長の好循環」を掲げています。 しかし、安全保障政策を企業の利益や経済成長と結びつけることには慎重でなければなりません。装備の生産や輸出を増やすことが政策の目標となれば、人々の命を守るために何が必要かという視点が後退するおそれがあります。 アイゼンハワー元米大統領が「軍産複合体」に警鐘を鳴らしたように、軍事組織と産業界の結びつきが政策判断を左右することがあります。防衛政策は、企業の利益ではなく、命と平和を守る目的から、必要性、効果、費用、外交への影響を検証すべきです。 政府と企業の関係にも、透明性、公正性、外部からの監視が必要です。 主権を守り、地域を戦場にしない 同盟国であっても、自国の基地、空港、港湾、領空を他国の軍事行動に使わせるかどうかは、本来、日本が判断すべきことです。 しかし、日米地位協定のもとで、日本側が米軍の施設・区域の運用に十分関与できない場面があります。米国で外国軍に認められない権限が日本国内の米軍には認められているとすれば、対等で互恵的な同盟関係とはいえません。 さらに、朝鮮国連軍地位協定などによって、朝鮮半島で有事が起きた場合、日本の基地が後方拠点として利用される可能性があります。日本が戦争の意思決定に参加していなくても、基地から軍事行動が行われれば、日本が報復の対象となるおそれがあります。日本の基地や地域が、他国の戦争に連動する「自動報復装置」のような役割を担わされる危険です。 日米地位協定と朝鮮国連軍地位協定を、国会と国民の前で検証し、見直す必要があります。自国の領土、空、港、道路が、いつ、誰のために使われるのかを日本が実効的に判断できることは、主権と民主主義の基本です。 沖縄をはじめとする南西諸島では、ミサイル部隊の配備や自衛隊の増員、日米共同訓練などが進められています。九州をはじめ、全国でも、演習場、港湾、空港、道路が軍事運用に組み込まれる可能性があります。 地域のインフラが部隊や物資の移動に使われれば、住民の暮らしは軍事計画と重なります。避難する人々と部隊の移動が、限られた道路、港、空港に集中することも考えられます。地域の利用目的、危険の度合い、避難方法、事故や攻撃時の責任について、住民への十分な説明が必要です。 沖縄がかつて「捨て石」とされ、多くの住民が犠牲になった歴史を忘れてはなりません。「命どぅ宝」という言葉のとおり、安全保障の出発点は、軍事施設の都合ではなく、一人ひとりの命と尊厳です。 避難計画だけでは、いのちは守れません 戦争や武力衝突の際、誰もが同じように移動できるわけではありません。人工呼吸器や透析、薬、介助を必要とする人にとって、停電、断水、道路の寸断、医療や福祉サービスの停止は、直ちに命に関わります。子どもたちも、家族や住まい、学校を失い、長く深い傷を負います。 政府は、有事を想定したシェルターの整備や避難計画を進めています。必要な備えを否定するものではありません。しかし、「誰を、どこへ、どのように避難させるか」という計画だけで、戦争から人々の命を守れると考えることには、根本的な限界があります。 障害のある人、医療的ケアを必要とする人、高齢者、乳幼児、妊産婦、病気を抱える人にとって、移動そのものが大きな負担であり、ときには命の危険を伴います。限られた道路、港、空港に、避難する人々と部隊・物資の移動が集中する状況で、誰も取り残さない避難を実現することは、容易ではありません。 シェルターも、場所を用意するだけでは命を守れません。電力、酸素、医薬品、食料、水、医療、介助、意思疎通の支援、衛生環境が継続して確保されなければ、そこは安心して生きられる場所にはなりません。 だからこそ、政府が「避難計画があるから大丈夫」として、軍事施設の配備や地域の軍事利用を進めることには、慎重でなければなりません。避難計画は、軍備拡大や地域の軍事化を正当化するためのものではありません。最も支援を必要とする人々の命と尊厳を守るために、当事者の参加のもとで検証されるべきものです。 政府が掲げる「継戦能力」も、武器や弾薬の量だけでは測れません。国民が飢えず、医療や介護を受け、住まいと地域のつながりを保ちながら生きていけることこそ、社会を守る力です。 戦争を前提に避難の方法を考えるだけでなく、戦争そのものを避ける外交と、誰もが安心して暮らせる社会をつくることが政治の責任です。 自由に語り、分断を広げない 戦争に向かう時代には、政府への批判が抑えられ、異なる意見を言いにくくなることがあります。 1940年、斎藤隆夫議員は日中戦争を批判する演説を行い、その多くが議事録から削除され、除名されました。この歴史を繰り返してはなりません。 安全保障を理由に、国民の自由や権利、表現活動を狭めることにも慎重であるべきです。国家情報会議設置法による国民監視の強化や、国旗損壊罪の新設が、国家への批判や少数者への差別を強めることも懸念されます。 異なる立場の人とも対話し、事実に基づいて自由に議論できる社会を守ることは、民主主義の基盤であると同時に、戦争を遠ざける力でもあります。恐怖や同調圧力に流されず、誤りを指摘し、政策を見直し、互いの尊厳を守ることができる社会こそ、戦争への道を抑えることができます。 すべてのいのちを政治の中心に 日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」と決意しています。 戦争は自然に起こるものではなく、政治の判断によって起こります。だからこそ、戦争を避けるために外交を尽くし、国際的な信頼を積み重ねることが政治の責任です。 81回目の敗戦の日にあたり、私たちは、戦争で失われた一つひとつの命に思いを寄せます。 脅威を冷静に検証し、防衛産業と政策判断の結びつきに透明性を求めます。日米地位協定などを見直し、日本が自らの領土や基地の使われ方を判断できる主権を確立します。 軍備の拡大だけに頼らず、対話と外交、食料、医療、介護、教育、住まいへの支援によって、平和と安心を築いていきます。 すべての命と尊厳が大切にされる社会を、みなさんとともにつくっていきます。 2026年8月15日 いのちの党 #いのちの党# #いのち#
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憲法改正について議論になっていますね。いろんな意見がありますが、私はまず根本的な死生観や倫理観についてもっと話し合う必要があると思います。 ガンダムの中で軍属であるアムロがお母さんに会うために連邦軍のホワイトベースから離れて、敵国であるジオン軍の統括エリアにある難民キャンプに潜入するエピソードがありました。お母さんには会えましたが、連邦軍の兵士が紛れ込んでいるという通報を受けてジオン軍の兵士がキャンプを検閲します。お母さんはアムロが見つからないようにベッドの中にかくまって、病人です、と言いますが、ジオン軍兵士は布団を引きはがします。その瞬間、アムロは兵士を撃って殺してしまいます。 お母さんはアムロに言います。「この人にも家族があるだろうに。」しかしアムロは言います。「お母さん、これは戦争なんだよ。僕が死んでもいいの?」 ここにはとても深い倫理的な問いが隠されています。人を殺すのは良くない。かといって、自分は一方的に殺されてもよいのか。性善説、性悪説という議論もありますが、私は人には道徳的な美しい心と、獣のような衝動的な感情が共存していると思います。私も人を殺したくないですが、もし戦争になって、敵が獣のように私に向かってきたら、やはり銃を撃ってしまうと思います。 憲法で武力行使を禁じている前提として、人の善性への期待があるでしょう。人は本来倫理的で、話し合えばわかる、と。しかし、常にそうではありません。そうではない獣性にとらわれてしまったら、こちらも武力行使をしなければならない、と考えます。 それならば、私たちにできることは、いかに相手の善性を引き出し、善なる心で話し合い、コミュニティを維持していくか、を考えることです。そのために国のリーダーは善性を持って議論すべきであり、獣性を前提とした議論をするべきではないと思います。 武力行使について考える場合でも、「本来善性によって話し合い、助け合い、解決すべきことで、まずはそこに全力を尽くす。それでも、相手が獣性にとらわれて武力行使を行ってきた場合、残念ながら、自らも武力行使をせざるを得ない。そのためのルール変更である。」と。 重要なのはルールではなく、その背景にあるポリシー、考え方です。そこが曖昧で共有できていないまま議論をしてもすれ違うだけです。 このような問題は安倍元首相を殺害した山上さんの事件についても言えます。山上さんが安倍さんを殺したのは、多くの人を助けるために一人を犠牲にしてよいか、といういわゆるトロッコ問題です。結果的に、統一教会は解散になりそうですし、韓国社会にも大きな影響を与えています。このトロッコ問題には正解というものがなく、コミュニティとして非常に難しい問題です。山上さんの行動が正しかったのかどうか、多くの学者さんが長い時間をかけて考えても結論は出ていません。本来どうあるべきか、というポリシーが社会的にも作り上げられていないのです。それなのに、「人を殺してはいけない」という法律に違反している、という点だけで彼を無期懲役にしようとするのは法律の濫用に思えてなりません。 誰もがアムロにも、アムロのお母さんにも、そしてジオン軍の兵士にもなりえます。自分がどの立場にあったとしても、納得できるルールなんてあるのでしょうか。願わくは、そのような極限状態にならないようにすることです。
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新作009が成功する為の方法その1 「OPを「誰がために」にする」 まずコレだけで+5億点ですよ( *´ω`)b
🆕中古レコード入荷情報🆕 浜田省吾 後期名作アルバム稀少アナログ盤で入荷‼️ 入手困難な2005年作「My First Love」や89年アナログ後期の「WASTED TEARS」、昨年プレスされた90年代の名作「誰がために鐘は鳴る」など☝️
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