ANCHOR OF SOLACE|
第5話 送る言葉📨
浴室から続く水音の向こうで、陽子はしばらく、スマホの右端に残った日付を見ていた。
……4日前
その数字は、ただ古いだけではなかった。白い画面の端で、そこだけが小さく残っている。陽子はそこから目を戻せないまま、画面の上で止まっていた親指を、一度だけ下ろした。
件名の下で、閉じていた本文が開く。白い画面に短い行が並び、陽子は最初の一行で息を止めた。声になりそうなものは出てこない。ただ、喉の奥が少し狭くなり、手の中のスマホだけが、急に軽くも重くも感じられた。
壁の向こうで丸く続いていた水音が、不意に途切れた。湯が床を叩く音が消えると、古い冷蔵庫の低い唸りが、リビングの底へ戻ってきた。
脱衣所の戸が開き、濡れた髪をタオルで押さえた咲が戻ってきた。
「お風呂、出たよ」
いつもの高さで落ちた声が、テーブルの前で止まる。タオルを動かしていた手も止まり、布の端に残った水だけが、咲の手首を細く伝った。
陽子はスマホを伏せなかった。咲が戻ってきたことに気づいているのに、顔に残ったものも直さない。普段なら静かに閉じるはずの口元が、まだ少しだけ閉じきらずに残っている。
咲は画面を覗き込まなかった。陽子の顔だけを見て、一歩手前で足を止める。
「……どうしたの? なんか、いいことあった?」
陽子は黒いスマホを持ったまま、咲へ視線を上げた。
「倫から、メールが来てた」
その名前が、冷蔵庫の低い音の上に落ちた。
咲はその場で、ほんの少しだけ目を見開いた。
「りっちゃんから?」
陽子は小さくうなずいた。手元の光はまだ消えていない。けれど画面を咲の方へ向けることはなく、咲もその先を覗こうとはしなかった。
「いつ来てたの?」
陽子は一度、画面の右端へ目を落とした。白い欄の端に残った日付だけが、そこだけ少し乾いたもののように見えた。
「……4日前」
咲の指にかかっていたタオルが、少しだけ止まった。髪先から落ちた水が、肩の布へ小さく吸われていく。
陽子は画面を見たまま、低く息を吐いた。
「……気づけなかった」
咲は首を横に振った。
「陽子、普段メールあんまり使わないでしょ。通知も切ってるし」
咲は濡れた髪をタオルで押さえ直した。布が水を吸う小さな重さだけが、会話の間に残る。
「フォルダ分けとかも、してないよね」
陽子は少しだけ困ったように目を伏せた。
「……よく分からないから」
「りっちゃんも、LINEとか入れてないしね。そういうの、縛られる感じがするって言ってたし」
陽子は画面を見たまま、小さくうなずいた。
「……倫からのメールだって、そんなに来ないし」
そこで会話が一度途切れた。古い冷蔵庫の低い音だけが、二人の足元で同じ調子を保っている。
咲は少しだけ声を落とした。
「……何て、書いてあったの?」
陽子は画面の端に視線を残したまま、少し遅れて答えた。
「日本に、帰ってくるって」
咲はすぐには返さなかった。冷蔵庫の低い音が、二人の間を一度だけ埋める。その間に、4日前という数字と、倫が帰ってくるという言葉が、少し遅れて重なった。
「それじゃあ、もう着いてるんじゃない?」
陽子は画面の白さを見つめたまま、短く息を吸う。
「……そうかも」
その声は小さかったが、冷蔵庫の低い音に沈むほどではなかった。
咲はそれ以上、言葉を重ねなかった。濡れた髪をもう一度タオルで包み直し、テーブルの端から半歩だけ身を引いた。椅子を引く音はしなかった。
陽子はスマホを置かないまま、親指をゆっくり動かした。画面が小さく切り替わり、返信欄の細い縦線が点滅を始める。
その欄に、すぐ言葉は入らなかった。咲は画面を覗かず、タオルの端を両手で押さえている。冷蔵庫の低い唸りが、会話の途切れた場所に残っていた。
陽子の指が、一文字目を置いた。続く言葉は短く並んでは止まり、いくつか消えて、また別の言葉に置き換わった。画面に増えていく細い行は、咲からは読めない角度にあった。
咲は何も聞かなかった。髪先から落ちかけた水が、タオルの中へ小さく沈む。その間にも、陽子の指はひとつ置いては止まり、何度か画面の上を戻った。
返信の終わりまで来て、陽子はしばらく動かなかった。本文を送る直前、陽子は件名欄に指を戻した。
そこへ、短く文字を置いた。
おかえり、倫
咲の位置から、その文字は読めなかった。ただ、陽子の指がそこで止まったことだけは分かった。
陽子の親指が送信の上で一度止まり、それから静かに触れた。画面の端に、小さく表示が出る。
咲はまだ何も聞かず、濡れたタオルの端を持ったまま、そこにいた。
送信済みの小さな表示は、しばらく画面の端に残っていた。陽子は指を離したあとも、スマホをすぐには伏せなかった。件名欄には、さっき置いた短い言葉が残っている。
おかえり、倫
打ち直した跡も、消した言葉も、咲からは見えないまま、画面の端の表示だけが切り替わっていた。
咲はテーブルの端から動かなかった。濡れたタオルを持つ手が、少しずつ重さを受けている。咲はまだ、画面の方へ半歩も詰めなかった。
画面の光が少し落ちる。件名欄の文字だけが、薄く残っている。
「……髪、乾かしてくるね」
咲の声は、さっきより少し低く、部屋の端に置かれた。陽子は画面を見たまま、小さくうなずいた。
脱衣所の戸が静かに開いて、また閉じる。しばらくして、壁の向こうでドライヤーの低い音が回り始めた。
リビングに残ったスマホは、それ以上、何も鳴らなかった。
The words were sent; the phone stayed silent.
言葉は送られた。スマホは黙ったままだった。
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