合唱の和音が濁ると、すぐに「ビブラートを抑えて」と言われる。
しかし、揺れを小さくしても音程が合わないことがある。
問題が、揺れの大きさではなく、揺れている位置にあるからだ。
ビブラートのある声は、音程が一定の範囲で上下している。
それでも耳には、「この高さの音を歌っている」と感じる基準の位置がある。これが音程の中心である。
同じ音を歌っていても、一人は本来の高さより少し上を中心に揺れ、別の人は少し下を中心に揺れていることがある。
この状態でビブラートの幅だけを狭くしても、ずれた中心が小さく揺れるようになるだけで、音程は揃わない。
もちろん、幅が大きすぎたり揺れ方が不規則だったりすれば、中心そのものが聴き取りにくくなる。
幅の調整も必要だが、それとは別に、それぞれの声が和音に必要な高さを中心に振動しているかを確かめなければならない。
稽古では、短く歌って各声部の音程を確認してから、同じ和音を長く伸ばしてみる。
長くなった途端に和音が高く聞こえたり低く聞こえたりするなら、ビブラートの中心がずれている可能性がある。
ビブラートを消すことが目的ではない。
自然な揺れを残したまま、音程の中心を整えることが大切なのである。
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本番中の自分には、客席で起きていることのすべては分からない。
材料の足りない採点を信用すると、必要のない修正が始まる。
『Luther Radio』 第91回、録音でお聴きください。
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第91回。
- 技術を教えることと、育てることは何が違うのか?
- 「上手い人」の真似をしても、上手くならないのはなぜか?
- 表現者は、なぜ身体より先に「判断」を鍛えるべきなのか?
- 本番で一番信用してはいけないものは何か?
- レッスンで褒められたやり方を、次もそのまま使っていいのか?
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デンプンから作られるのがオブラート。
伝聞からそうなったであろうビブラート。
ボンタンアメって知ってますか?
あの、ビブラートに包まれた
独特の食感がたまらないんですよ
人の写真を見て、安易に「怖い」などと言うものではない。
私は、怖くなろうと思って、この顔になったわけではない。
言った側は冗談のつもりでも、私には「あなたの顔は人を怖がらせる」と届く。
何を感じるかは自由だが、頭に浮かんだ感想を、すべて本人へ伝える必要はない。
外見についての一言は、口にした人が忘れた後も、言われた人の中に残る。
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身体は、「今、この声が必要か」まで決めてはくれない。
作品と相手の変化を読み、身体へ仕事を与えるのは判断である。
『Luther Radio』 第91回、録音でお聴きください。
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第91回。
- 技術を教えることと、育てることは何が違うのか?
- 「上手い人」の真似をしても、上手くならないのはなぜか?
- 表現者は、なぜ身体より先に「判断」を鍛えるべきなのか?
- 本番で一番信用してはいけないものは何か?
- レッスンで褒められたやり方を、次もそのまま使っていいのか?
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仰向けに横たわる Short 2
@YouTubeより
仰向けエクササイズが大好き。ショートでも作っています
茶道具の一つ、茶杓を拝見。
各部位の名称や、節より先は持たない等のルールを教わった。
先端部、櫂先が片方に偏った形になっているのも興味深かった。
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「もっと前へ響かせて」
そう言われた歌い手が、顎を前へ出し、声まで押し出してしまうことがある。
指示に忠実に従ったつもりなのに、声が押しつけられたようになり、かえって歌いにくくなる。
これは、「前へ響かせる」が身体の操作を直接示す言葉ではないからだ。
身体には、響きを前方へ移動させるための筋肉やスイッチがあるわけではない。
指導で使われる「前へ」は、多くの場合、声が明瞭に届いたときの印象や、歌い手が顔の周辺に感じた振動を表す比喩である。
ある人には声を整えるきっかけになっても、別の人が同じ感覚を求めれば、鼻にかけすぎたり顎を固めたりすることがある。
大切なのは、指示どおりの感覚が得られたかではなく、その言葉によって実際の声がどう変わったかを確かめることだ。
「前へ」と言われて歌いやすくなったなら、声の出だしや母音の明瞭さなど、何が改善したのかを探る。
その変化が分かれば、曖昧な感覚だけを追わなくても再現しやすくなる。
感覚的な比喩は、身体を働かせるきっかけにはなる。しかし、同じ言葉がすべての人に同じ働きを生むわけではない。
「前」を感じられたかではなく、その人の声に必要な変化が実際に起きたかを確かめる必要がある。
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舞台で長い沈黙が続くと、つい「深い芝居だ」と思いたくなる。
しかし、その間に人物の中で何も起きていなければ、観客が見ているのは内面ではなく、俳優が黙っている時間である。
人は相手の言葉を聞いたあと、それまでの考えが揺らぎ、返そうとした言葉を選び直すことがある。
そのために時間が必要になれば、結果として沈黙が生まれる。
沈黙の前と後で人物の判断が変わっているからこそ、次の台詞にも意味が生まれる。
反対に、深刻な雰囲気を作るためだけに台詞の前後へ間を挟むと、人物の思考まで止まって見える。
毎回同じ秒数だけ黙っても、その間に相手から何を受け取り、次に何をしようと決めたのかがなければ、場面の進行を遅らせるだけである。
演出上、間の長さが決められている場合にも、その時間を空白にしてはいけない。
相手との関係は続いており、次の言葉へ向かう判断も進み続けている。
間は、演技に深さを加えるための装飾ではない。
人物が次の言葉を発するまでに、本当に必要となった時間なのである。
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今日は、久しぶりに浴衣姿で月釜にお邪魔した。
先日の『Edwin』に、先生方がお越しくださったので、そのお礼も兼ねて。
そして、何と『副次的文化系歌曲祭 Vol.5』にも、先生方がお越しくださるそうで、恐縮してしまった。
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音楽の授業が苦手だったような人にはおすすめ!
鑑賞つらかったなぁ…という記憶が思い出されている人もいるかと思いますが、そういう人も音楽の楽しみ方のひとつを提示できるイベントです!
また、関係ないわ…と思っているそこのあなたにもこのイベントは活用できます。
登壇者見てみなよ!絶対得られるものしかないから!
皆さんの早めの登録、周りを誘っての参加、お待ちしておりま~す!!
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月釜でお茶席にお邪魔中。
おや?
何か異なものが…
最後の音を切った瞬間、合唱はまだ終わっていない。
会場には、自分たちが歌った終止和音の余韻が響いている。
よく整った和音は、声を切ったあともまとまりを保ったまま静かに消えていく。
ところが、残響が「ワンワン」と膨らんだり弱まったりしながら消えることがある。この揺れが「うなり」である。
うなりは、それぞれの声部が少しずつ高かったり低かったりして、和音が十分にかみ合っていないときに起こりやすい。
歌っている間は声量に紛れて気づかなかったずれが、声を止めたあと、残響の揺れとして聞こえてくるのである。
もちろん、会場の反響が影響する場合もあるので、うなりだけを聞いて「誰かの音程が悪い」と決めつけることはできない。
それでも、和音全体を見直す手掛かりにはなる。
稽古では、声を切ったらすぐに動いたり話したりせず、残響が消えるまで耳を澄ます。
揺れが聞こえたら、最後の音だけでなく、その和音へ入る少し前から歌い直すと、どこで響きが崩れたかを確かめやすい。
終止和音は、声を切った時ではなく、響きが消えた時に終わる。
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同じ口の形や息継ぎを使っても、同じ効果になるとは限らない。
真似を自分の技術へ変えるには、何を観察すればよいのか?
『Luther Radio』 第91回、録音でお聴きください。
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第91回。
- 技術を教えることと、育てることは何が違うのか?
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本日は #
コールなみ# 合わせでした!! #
なみフェス30# にむけて、もりもり合わせていきました♪楽しいステージをお届け予定ですので、是非いらしてくださいね!!
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まだお申込みしていませんか?
しませんか?
…しない?
しょもも…(´・ω・`)
絶対に面白いのになぁ…URL置いときますね…
(´・ω・`)つ
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同じ注意を受けても、「今日は調子が悪かった」「本番ならできる」と説明を始める人がいる。
事情はあるだろうが、説明を重ねても、できなかったことができたことに変わるわけではない。
結局、上達しながら活動を続けられる人に必須なのは、「認める力」だと思う。
実力不足を認めるとは、「自分には才能がない」と決めることではない。
今の自分と、その場で求められている水準との距離を正確に測ることである。
もちろん、指導者の言葉を無条件に受け入れる必要はない。
指摘が妥当かどうかは、録音や実際の結果と照らし合わせて考えればよい。
ただし、事実まで気分で否定してしまえば、原因を探せず、練習の内容も変えられない。
自分の不足を認めない人は、同じ課題を抱えたまま現場だけを変えていく。
本人は新しい場所へ進んでも、置き去りにしたはずの課題が、また先で待っている。
活動を続けられる人は、欠点のない人ではない。
足りない部分を認めたうえで、今回の舞台に必要な準備をし、そこで得た事実を次の成長に使える人である。
実力不足は、認めた瞬間に直すべき課題へ変わる。
認めないままでは、失敗するたびに理由だけが増え、技術は同じ場所に残り続ける。
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すぐ直してもらえるレッスンは、よく進んでいるように見える。
それでも本人の判断が育たないことがあるのはなぜか?
『Luther Radio』 第91回、録音でお聴きください。
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第91回。
- 技術を教えることと、育てることは何が違うのか?
- 「上手い人」の真似をしても、上手くならないのはなぜか?
- 表現者は、なぜ身体より先に「判断」を鍛えるべきなのか?
- 本番で一番信用してはいけないものは何か?
- レッスンで褒められたやり方を、次もそのまま使っていいのか?
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「眉間へ声を飛ばして」「胸に響かせて」。
発声指導ではよく使われる言葉だが、顔や胸に振動を感じても、そこが声の出口になったわけではない。
声は声帯の振動から生まれ、喉や口の中で音色と言葉の形を与えられ、口や鼻から外へ届く。
歌っている本人が顔や胸に感じる振動は、声の振動が骨や身体の組織を通して伝わった感覚である。
この感覚は、発声の状態を知る手掛かりにはなる。
うまく歌えたときに頬が振動した、低音で胸に響きを感じたという記憶は、同じ状態を作り直す助けになることがある。
ただし、その場所へ声を押し込もうとすると、原因と結果が逆になる。
顔の振動を増やそうとして鼻にかけたり、胸へ響かせようとして音を重くしたりしても、客席へ届く声までよくなるとは限らない。
同じ人でも、音域や母音が変われば振動を感じる場所は変わる。
振動を強く感じることと、よい声が出ていることは同じではない。
身体にどんな感覚があったかを覚えながら、録音や客席側の耳で、実際にどう聞こえたかを確かめる。
響きを感じた場所は、声の行き先ではない。
発声の結果を自分に知らせる、身体側の手掛かりなのである。
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「もう帰ってください」と言いながら、本当は相手に残ってほしい場面がある。
台詞としては語られていない人物の意図や本音を、演技では「サブテキスト」と呼ぶ。
しかし、サブテキストを「心の中で唱える別の台詞」だと考えると、俳優は舞台上で一人二役を始めてしまう。
口では「大丈夫です」と言いながら、頭の中では「助けて」と唱える。
二つの文章を同時に再生しても、それだけでは相手への働きかけは生まれない。
台詞の下に本音を書き込む作業は、人物を理解する助けにはなる。
しかし、実演で必要なのは、その本音を頭の中で読み続けることではなく、目の前の相手に何をしようとしているのかを明確にすることである。
同じ「大丈夫です」でも、相手を安心させたいのか、それ以上の追及をやめさせたいのかで、言葉の強さや間は変わる。
あらかじめ意味深な声色を作らなくても、相手が自分の言葉によってどう変わったかを確かめながら話せば、発語には目的が現れる。
稽古では、裏に隠された文章を考えるだけで終わらず、「この台詞によって、相手にどうしてほしいのか」を決めるとよい。
その結果が得られなければ、同じ台詞を別の働きかけ方で試すこともできる。
サブテキストは、俳優の頭の中だけにある第二の台詞ではない。
口にした言葉で、相手をどう動かそうとしているかに現れるものである。
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