ケアする人へのケア、非常に重要な概念です
日本では一般的に家族に介護を必要とする人がいる場合、その家族の誰かが世話をすることが通例ですが、
介護 / 看護を理由に仕事を辞める人は年間10万人にものぼります(これは老人介護の場合です)
当人はまだまだ働ける / 働きたいと思っているし、家計的にも余裕があるわけでもないのに退職を余儀なくされています
また、身内が介護を余儀なくされた分、1馬力で稼ぐ必要のある働き手への負担があったり、食事 / 排泄 / 入浴などのケアなどは重労働のため家族全体の負担になり、1人が仕事を辞めたからといってそれで問題ないと言われればそんなことはなかったりします
障がい者家族の場合、そうでない家族からその辛さを理解してもらえないという苦しさもあります
ケアする側の人生がほぼ犠牲になると言い切ってもよいくらい、限界スレスレの努力で行われているし、家族全体に非常に大きな負担となっているのが実情のように思います
産んだから責任を取るべきというのは道徳的にはその通りですが、ケアする人へのケアという観点はもう少し広まって欲しいと思っています
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社会が本当の意味で人の命を重要視し、人権を尊重できているなら、社会全体で障害者をケアする人へのケアも行われるはず。
美辞麗句を並べながらも「厄介者」扱いで、障害児を産んだら自分で頑張ってね、介護士は薄給。
だからこそ、人権vsリアル、のような無益な構図?で語られてしまう。
だから、
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この方の仰る通り、加害者の動機を分析することと加害を正当化することは全く異なる作業ですが、これを混同している人が本当に多いように思います
やまゆり園の事件に対して、殺人は絶対的な悪であり許される行為ではありませんが、そういう悲劇を産んでしまった背景 / 植松被告の考えを分析することには非常に意義がありますし、
ただただ目を瞑ってなかったことにする、狂気的な殺人者1人の異常行動であると雑に決めつけるとまた同じような現象が起こりうる可能性があります
私も障がい者家族として思いますが、日本には本当に尊い仕事をされている方々がいますし、しかし彼らが働く上での劣悪な待遇は全然解消されないまま、問題視すらもされないまま、どこか諦めたようにこの10年が過ぎたように思います
障がい者福祉に限らず、エッセンシャルワーカーが自由競争社会で大きく儲けることは非常に難しいという市場の構造があり、だからこそ正当な再分配の声を上げ続ける必要があります
極端な議論に逃げず、何が必要かを忍耐強く考え、声を上げていかなければなりません
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植松事件が起きてしばらくして、別の垢で言ったのよ
「植松のやったことはあり得ない。が、福祉スタッフがおかしくなる状況はある。植松を裁くのとは別に福祉の労働環境を見直すべき」
そしたら、
「植松の主張を聞いたら事件が肯定される」
「そんなこと言って被害者の遺族に配慮しろ」
といわれたよ。まあ、俺の誰かが問題視するだろ。と思ってたら10年間ろくな議論はなく、福祉は人材不足
これだよ
配慮や本質から目を逸らす要因は福祉に溢れている
障害者側が傷つかないことを俺も望んでいる。でも、傷つかないことに憂慮しすぎた結果、深刻な問題に触れず、福祉の人材不足。さらに深刻になれば、
障害者側の人が傷つくことになる
みい山もいろんな懸念点がある。でも、今のままで同じように配慮を続けて、状況は変わるのか?
俺は配慮や懸念も行き過ぎれば、どんどん高度化する支援に福祉職がついていけなくなるぞ。配慮と懸念で抱えてる問題を明らかにせず、福祉職が苦しみ続けてるならそれは人権侵害の一つだろ
障害の人ばかり憂慮されて、一体誰が現場の福祉職の人間を救うんだよ
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言葉を言い換えても侮蔑の本質が消えないというのは非常に悲しいことですが言語学ではよく知られた現象です
スティーブン・ピンカーという心理言語学者は、これを『婉曲表現のトレッドミル』と名付けました
差別的な語をいくら柔らかい印象を与える言葉や婉曲的な表現に置き換えても、その言葉が指す対象への評価が変わらない限り、新しく作った表現の意味がどんどん差別の元となった概念に近づいて汚染される、という現象です
いくら呼び名が変わったところで、当事者を見る視線が変わらなければ同じ道を辿ってしまう
言い換えることは無駄ではないものの、それ単体では時間稼ぎにしかならないんですね
変えるべきは名前ではなく、その名称を使う我々側の視線や態度なのだと思います
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「障害児」という言葉が有名になって、他人を『ガイジ』と呼んで侮辱する人が出てきた。
「アスペルガー症候群」が有名になれば『アスペ』。
「ケーキの切れない非行少年たち」で『ケーキ切れなそう』。
そして『みいちゃん』
ラベルだけ何度も変えるのを繰り返して、中身は何も変わっていない。
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同じ現場を見ていた人が、片方は殺す側 / 片方は救う側に回りました
この2人を分けたのは、単純な性格や頭の良さや正義感といったものでは無いように思います
植松被告は事件の半年前、自施設における保護者の疲れた表情や職員の正気のない瞳など、ケアの現場が疲弊している現状を訴える直談判の手紙を当時の衆議院議長に書いています
こういった実際の介護における問題は現在も根強いですし、多くの人が同意しながらも目を背けている問題であるように思います
引用元の命を懸けて鉄扉を閉じた職員だって、この現状認識を否定してイキイキ働いていたわけではないはずです
しかし、最終的に方法はそれを理由に人を殺し、片方は自分の命も顧みずに人を救った
理屈の精度や知識の量でもなく、究極的に追い詰められた状況で自分がどちらの人間でありたいか、という1点が2人を分けたのだと思います
この10年という節目に、同じ時間同じ場所に真逆の選択肢を選んだ人がいたという事実が広まって欲しいと思います
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当時は日本でここまではっきりとしたヘイトクライムが起きるとは思わなかった
人生で一番衝撃を受けた事件
ただ、犯人の残虐さだけじゃなくて、自ら犠牲になる覚悟で鉄扉を閉じ通路を塞いだ職員がいた(そのおかげで二階の入居者に被害が出なかった)ことももっと広まってほしい
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毒親育ちが自立する上で一番過酷なのは、『人生を大きく変えるチャレンジが難しいこと』なんですね
人生に失敗したとき、帰ってこいと言ってくれる実家がない
多くの家庭にとって、自立するプロセスは親が最後の責任を取ってくれるセーフティネット付きの山登りです
転職に失敗しても、事業が潰れても、離婚しても、少なくとも親が存命のうちなら泣きつくことができる
心理学には『安全基地』という概念がありますが、安全が確保されている(=戻れる場所がある)人ほど、大きく遠くまで挑戦できるんですね
一方、毒親育ちにはこのセーフティネットは存在しません
戻れば批判と支配が待っている実家は、セーフティネットどころか、落ちることで2度目の怪我をする場所です
だから勉強も就職も住居選びも人間関係も「失敗できない」前提で選ばざるを得ないのですが、その慎重さは挑戦の幅を狭めてしまう
この非対称な前提に対して、毒親育ちの人ができるせめてもの工夫を紹介します
意識しておくべきことは、『実家の機能を分解して、別の場所から調達できるようにする』ことです
①経済性の担保:生活防衛資金を、他の人より厚く持つ(実家分の保険料だと考える)
②緊急時の住居:友人など、一時的に頼れる場所の目星をつける、公的な支援窓口があることを知識として知っておく
③感情の受け皿:失敗を報告し合える人間関係を家の外に築いておく
「それができたら苦労しねーよ」と思うと思いますが、上記の3つの観点を頭のどこか片隅においておいて欲しいと思います
時間はかかりますが、今できることを少しずつ積み上げられる人が一人でも増えることを祈っています
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毒親育ちには、人生をやり直すための「実家」がない。
仕事を失う、離婚する、病む、生活が崩れる、みたいな人生が一度止まる場面で、健全な家なら「とりあえず帰ってこい」が出る。でも機能不全家庭では、「だからお前はダメ」「迷惑をかけるな」「恥をかかせるな」に変わる。帰る場所のはずが、再出発の前にさらに削られる場所になる。
だから毒親育ちの自立は、普通の自立と違うんよな。親元を離れて自由になるだけじゃない。失敗しても戻れない前提で、仕事も住む場所も人間関係も選ばなきゃいけない。実家が太い人には保険がある。毒親育ちは、保険がないまま社会に出される。そこを根性論で片づけられるのが、一番きつい。
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『加害者と同じ属性なだけで不利益を与えるのは差別であるというのは、黒人の犯罪率を理由に黒人へ補助しないのと同じである』
一見筋が通って見えますが、2点から成立していない議論のように思います
1つ目は「不利益を与える」と「追加支援をしない」という現象は同じではないということです
差別の定義は、属性を理由に不利益を課すことです
黒人に補助を拒否する行為は、他の人なら誰でも受けられるサービスを属性を理由に拒否することになるので、明確な不利益の付与です
一方、女性向けの家賃補助支援において、女性は得をするという見方もできますが(そもそもここは要議論です)、仮にそうだとしても別に男性は何も奪われていません
男性の家賃は補助の前後で変わらず、受けられていた何かを失っているわけではありません
対象者が学生の半分(女性の割合)でとても多いことから、その対象とならない男性が不利益を被っているように見えるのだと思いますが、議論の入り口は異なります
『他人が支援を受けること』は、自分への不利益ではないのです
2つ目は、補助の根拠を取り違えていることです
女性への家賃補助は「男性が加害者だから男性を罰する」ための制度ではなく、「女性に被害リスクが一方的に偏っているから、そのリスクが生む追加コストを補填する」制度です
あえて黒人差別の文脈で例を挙げるのであれば、「ヘイトクライムの被害に遭いやすい集団に、防犯設備の補助を出す」という支援ですが、これは差別ではないものとして多くの人が支持する被害者支援です
属性で個人を裁いてはならない、という原則自体はおっしゃる通りだと思います
しかし、その原則が禁じているのはあくまで属性を理由にした処罰と排除であって、リスクの偏りに応じた支援ではありません
この区別が崩れると、あらゆる支援が「逆差別」の名で解体できてしまうように思います
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当たり前のことですが、子供は世界についての知識を親から相続します
幼い子供には、親の認知と実際の現実が同じなのか疑う思考も、検証する手段も持ち得ていません
親が「毒」と言ったら毒だし、親が「危険」と言ったら危険なものになる
親の持つ思想は世界の標準仕様として子供にインストールされるんですね
(この現象自体は子供が生存する上で重要な儀式です)
しかし『大人になる』ためには、親から受けた思想の棚卸しを行い、自分の思想として再取得する作業が必要です
なぜなら、人が幸せになるために必要なものは『自分の人生を自分でコントロールしている』という感覚だからです
食べ物に関しては実際に食べてみることで検証することができますが、
例えば差別意識 / 偏見 / 幸福への価値観といった目に見えないものはそもそも検証自体がとても難しい
・「あんたがそんなことしても意味ない」と刷り込まれると、挑戦前から限界を設定してしまい、自分を冷笑してしまうようになる
・「他者はみんな敵である」と刷り込まれると、子供の他者に対する言動が硬くなり、その硬さが実際に冷たい反応を呼んでしまうことで、実際にその通りの未来が成就してしまう
ということが起こってしまうんですね
自分が無意識に「そういうものだ」と思っていることのうち、親の口癖によって産まれたものを、自分の意思で一つ一つ検証してみる
「牡蠣を一口食べてみる」に相当する小さな一歩を、人間関係や自分の能力についてもやってみる
この地道な検証を重ねることが、真の意味で親から脱出できる唯一の方法だと思っています
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偏食の激しい母親から「人間の食べ物じゃないから」と複数の食材を禁止されて育ち、成人してから
私「この美味しいのは何だろう?」
友「これは牡蠣で、赤いのがキムチだよ」
私「え!?親から毒があるって言われてた…」
友「そっか…(無言で背中をさする)」
みたいな事が頻発して本気で恨んでる
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心理学には『ダブルバインド』という概念があり、これを悪用して子供の追い詰める親が存在します
『ダブルバインド』とは同じ相手から矛盾する二つの命令が出ることで、どちらを選んでも否定や罰を受けるような逃げ場のない心理的なストレスが与えられている状態を指します
親子のような、降りることができない、かつ一方的な権力関係のある条件ではとても発生しやすく、
子供は矛盾の指摘すら許されないないため、次第に命令を疑うのを辞め、自分の受け取り方が間違っているのだと考え始めてしまいます
独り立ちする術を教えてもないのに、子供に対して『世の中そんなに甘くない』と言いますが、
実は当の親こそ自分の感情をぶつけるサンドバッグが手元を離れてしまうことを恐れているんですね
甘えているのは親の方なんです
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実家にいるなら金入れろ、それが嫌なら早く出て行けという割に、お前は外ではやっていけない、世の中そんなに甘くないと不安を煽るばかりで、肝心の一人暮らしの方法や生きる術は何一つ教えてくれなかった毒親。
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配慮のあった環境から配慮のない環境に移った瞬間に落ちてしまう、という現象は実際によく起きているように思います
ただ、これは叱らなくなったことの結果というよりは、叱るか叱らないかの2択で教育を考えてきたことの結果であるように思います
教育の分野では『足場かけ』と呼ばれる概念があります
子供がまだ一人ではできないことに、大人が一時的な支えで手助けする、という当たり前のことではありますが、重要なのはこの足場は必ず外すことを前提に組む、ということです
支えながらも支えを減らしていく、という手順が重要で、ただただ支えをとある瞬間から打ち切ってしまうと、そのまま支えの差分を落下してしまう
例えば、忘れ物を繰り返してしまう子供に対して、
・足場を用意する行為:親が予備を用意しておく、学校で借りられるようにお願いしておく
・足場を外す行為:持ち物を前の晩に写真で撮らせる、持ち物のチェック表を作って確認するルーティンを付けさせる
このような形で、短期的な不利益を防ぐ『足場を用意する行為』、長期的に独り立ちを助ける『足場を外す行為』はセットで行われないといけません
またその際、叱る行為の有無は関係ありません
厳しくするか優しくするかという単純な二元論ではなく、どこまで足場を用意して、どこから足場を外すかという複雑で曖昧な部分こそ議論されて欲しいと思います
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例えば「忘れ物をする」といった、我々の時代にはどんな理由があれ「悪」とみなされてガミガミ言われていた事が、今の時代では「人間なんだから忘れるのは仕方ない」とか「そんな事で叱るな」という形に変わってきた。
そして「子供達が忘れ物をする前提で予備を用意しろ」、「今時忘れ物しても借りられるんだから良いだろ」といった意見まで出てくるようになり、「忘れる」という行為が「悪」から「普通」に格上げ(格下げ?)されてしまった。
それに加えて、最近は発達障害という言葉もかなり広がり、「どんなに頑張っても忘れ物をなくす事が出来ない子がいる」というのも多くの人に認知されてきた。
そういう子に注意する事は不適切な指導とみなされるようになり、指導側もそういう気がある子には「臭い物に蓋をする」という形で何も言わない。
では、大学や社会はそれを許してくれるかというとそんな事はない。
「レポートを期限までに出し忘れる」、「履修登録をやり忘れる」、「水道代や電気代を払い忘れる」、このような「やるのを忘れる」という事に対してとても厳しく、その結果「単位がもらえない」、「電気を止められる」といった事が起こる。
それを「やっちゃった🤪」と戯けられる子はまだ良いだろう。
しかし、今の子達はこういう所はとても真面目なので、今の大人達が思ってる何倍も重く受け止めてしまう。
しかも今までは周りの人達になんとかしてもらってそういう失敗をしてこなかった分、初めての失敗によるダメージは計り知れない。
「叱らない教育」に代表される、過度に子供達に優しくする令和の教育が引き起こした最悪の形だと思う。
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どこまでも自分本位だとご自身を裁く必要はないように思います
ジューン・タングニーという心理学者は「恥」と「罪悪感」は異なる概念であると定義しています
罪悪感の矢印は自分の行動に向いているので、謝る・直す・埋め合わせる、という関係値を修復する行動につながります
一方、恥の矢印は自分の存在そのものに向いているため、消えたい・隠れたいという回避の感情を生んでしまう
自己否定に沈んで相手の感情に向き合えなくなる、素直であるが故に自分勝手とも取れる行動をとってしまうのは、この恥の反応が起動していることの証左でもあるんですね
本当はこれを罪悪感の回路に向かわせる必要がある
思ったことをそのまま表出するのではなく、一回グッと堪えることが重要です
まずは自分がどうであれ相手の感情を損ねてしまった行動に対して謝る
次に自分の話をどんどん続けることはせず、相手に何が嫌だったのかを誠実にヒアリングし、行動を改善させていく必要があるんですね
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発達障害の人が謝れないという話、謝れないこと自体に加えて、仮に謝ったとしてもそのベクトルは相手ではなく自分に向いたままで、「自分なんてダメな人間だ」「生きていてもしょうがない人間なんだ」と自己否定に沈み、傷つけた相手が何を感じたのかには向き合わず、最終的には相手にケアさせてしまったりと、どこまでも自分本位なんですよね。本当にどうかと思います。私です。
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結構アクどい話なのですがこの手の話題はいつの時代も尽きないですね
「お金を出すから社長をやってみないか」と大学生に持ちかける大人は結構いるのですが、そのほとんどが善意による起業支援ではありません
仕組みはこうです
・出資者は株式を握り、経営の実権と利益の取り分を確保する
・学生は「代表取締役」の肩書きを受け取るが、株式を持たないので会社の支配権はない
・そして代表取締役という登記上の地位には、実権の有無と無関係に法的責任が付いてくる
つまりこのスキームでは、うまくいけば利益は株主に、失敗すれば責任は名義上の代表に、という配分が最初から設計されているんですね
契約の前にこの3つは最低確認しておくことをおすすめします
① 株式は誰が何割持つのか(自分が代表なのに株がゼロなら、それは経営者ではなく客寄せパンダ)
② 自分の名前で何を負うのか(借入の連帯保証 / 登記上の責任 / 契約の当事者など)
③ この話を、利害関係のない第三者に見せられるか
努力家で素直な人ほど、出資者や目上の人を疑うことは失礼なのではと感じてしまいますが、まともな出資者であれば誠実に応えてくれるはずです
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大学生に対して「俺がお金出すから社長やってみない?」って言ってくる大人は意外と沢山いる
18,19歳のガキを毎年狙ってる奴らはなかなか悪どい
インターンや起業に前のめりな子を狙い撃ちすればいいだけだからイージーなんよな
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『良い子でいれば幸せになれると信じていた。』
悲痛な叫びです、子供と結んだ非対称的な"約束"は、子供の人生を良くない方向に曲げてしまう可能性があります
・大人の言うことを素直に聞き、反抗しない
・一生懸命で真面目
こういった特性が「良い子」として褒められるとき、子供の側は一つの約束を読み取っています
この条件を満たし続ければ、愛され、報われ、幸せになれる、という約束です
心理学的な『価値の条件』つまり承認が条件と連動する環境の学習です
問題はこの約束の中身にあります
「良い子」であること自体は、子供自身が幸福を掴み取る技術ではなく、大人にとっての扱いやすいかという一点でしか機能しない特性なんですね
だから『良い子』だった人が大人になって、
・自分の意思を主張できない
・そもそも自分の意思がない、何をしたいのかわからない
・理不尽を我慢し受け入れることしかできない
という問題に直面してしまうことがあるのです
幸せを実感するには、自分の人生が自分の選択によってコントロールできているという実感が非常に重要であり、
そのコントロールのために自分が何を欲しているのかを理解する技術が非常に重要なんですね
他者から褒められることと、自分が幸せであることはそもそも全く別の現象であることを理解することが一歩目になります
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良い子でいれば幸せになれると信じていた。大人はみんな、言うことを素直に聞いて、反抗なんてしなくて、一生懸命で、真面目な子を「良い子だね」と褒めるじゃないか。良い子は絶対的な正義だったじゃないか。
ー『良い子でいたら幸せになれるんじゃなかったのかよ』(白瀬世奈)
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苦労と苦痛は似ているようで結構違います
生理学者のセリエによって、ストレスには成長につながる負荷と、ただ消耗させる負荷の二種類があることが知られています
見分けの軸は痛みの量ではなく条件にあります
・自分で選んだ負荷か、強いられた負荷か
・終わりと目的が見えているか
・回復の時間と、受け止めてくれる場所があるか
条件の揃った負荷は苦労と呼ばれ、自らを鍛える経験となりますが、条件のない負荷は苦痛でただ肉体と精神を削っていきます
そしてこの区別がつかないまま育つと
・苦痛を苦労と読み違えて、削られる場所に留まり続けてしまう
・苦労まで苦痛と感じて、成長の負荷を全部避けるようになる
という性質を持った大人になってしまうんですね
あなたが今とても大変だとして、この状況を
①自分で選んだのか
②終わりが見えるか
③回復していくイメージがあるか
という、大変さの条件をしっかり確認していくことが、そういう大人にならないために重要です。
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「苦労」と「苦痛」は似ているようで結構違うという漫画です。
この闇子ちゃんというキャラは毒親育ちの設定なので、時々毒親ネタが出てきます😇
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自分の考え持とうもんなら親に従順であれだ敬えだ挙げ句の果て悪魔扱い それでいてなんのために宗教してるのかと思うほどの倫理観の低い大人たち 自分を顧ることのできない人を敬うことはできない 反面教師にするしかない
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これや。
「俺を、私を悪く言ってはいけない」
やってることは虐待の正当化。そりゃ鬱憤の捌け口として虐待が連鎖するはずだ。
良い指摘だな。ドイツの中学生1,366人を対象にした研究によれば、親の「拒絶・罰」や「統制・過保護」は子どもの反社会的性格形成と直結してる。特に母親による統制的態度が最も強い悪影響を示してて、親の「見えない」行為が性格に深く刻まれることが実証されてるんだよね。
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何故かセクハラになると急に議論の方向を見失う人が多いように思います
セクハラの判定基準は「誰にでもやっているか」ではなく、「相手が望まない性的な言動をとったか」というものです
行為者の意図や日頃のキャラクターは関係なく、受け手にとって望まない肉体コミュケーションが行われたかが軸になります
「男にもやっている」「別の人のボディータッチは許していた」という弁護が成立しない理由は、同意が個別のものだからです
Aさんが許容している接触は、Aさんとの関係で許容されているだけで、Bさんへの接触の許可証にはなりません
極端な話、親から手を繋がれるのと見知らぬ人からいきなり手を繋がれるのが同じなわけがありません
論点は「その行為は望まれていたものであったか」という個別で切り分けられるべきなのに、いつも「行為者はどういう人か」という別の論点にすり替わり、いつの間に加害者への私刑に近い誹謗中傷や、被害者へのセカンドレイプに近い人格否定が行われています
そもそも男性対女性のレスバトルであってはいけないのだと思います
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男にも触ってたら、女へのセクハラが消えるらしい。初めて知った🎉
セクハラかどうかは、
「男にも同じことをしたか」ではなく、
相手が望まない性的・身体的接触だったかで判断される
男女平等に距離感を壊していたら、無罪になるんじゃない
全方位にアウトなだけ
仲のいい男性との写真を貼っても、女性への接触の正当化にはならないのよ
#
セクハラ#
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少子化には隠れたコストがあります
人間は自分とあまり関係のない何かを認知する際、それを見たことがないあまり、とても一般化された、記号として処理してしまうという性質を持っています
かつての村単位での生活が当たり前だった時代、子供は皆で育てるものであり、直接子供を持たない人にとっても子供と関わる瞬間は多かったものです
子育て、一緒に遊ぶ経験、電車で泣く赤ん坊に居合わせることすら無くなった社会では、
「子供」をリアルに認識することは難しく、イメージの中にある「いい子」という単一的な記号を「子供」として認識してしまう
だからこそ実際に対面した際に、その記号とのずれ、つまり泣く、騒ぐ、失敗する、言うことを聞かないという子供の平均的な仕様に対してびっくりするし、それが全部「親の躾の失敗」として受け取られるようになります
大人の言うことを全然聞き入れてくれない一般的な子供(=クソガキ)を包摂できるかどうかが非常に重要になりますが、その包摂力は子供との接触の総量でしか維持することが難しい
少子化対策の議論は給付の話に寄りがちですが、子供の実物を社会が忘れずに受容できるということも同じくらい重要な土台の話だと思います
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少子化の大きな害の一つは、社会が実際の子供がどんな生き物か忘れてしまうことだよな。
大人は「いい子」が大好きなので、「クソガキ」をどう社会が包摂していくかを忘れてしまい、大人の基準で子供を測るようになり、子供は「子供」という単なるマイノリティとして扱われるようになってしまう。
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『罰を対称化すべき』というより『権利の付与』で応える、この視点の転換が本筋だと思います
妊娠した学生の退学問題は、「男子も退学にすべき」という罰の議論になりがちですが、
より根幹に、大人には産休育休が権利として保障されているのに学生には何もないという権利の不平等性という異常があります
妊娠は退学理由ではなく休学と復学の支援対象であるべきで、
実際、文科省も妊娠を理由とする安易な退学勧告をしないよう通知を出しています
学校教育という名のもとにブラックボックス化されまかり通ってきた概念はたくさんあります
体罰、水分補給の制限、炎天下での運動、労働安全衛生の基準なら一発でアウトの行為が、教育だとなぜかそういうものだとされてきた
子供は権利の主体ではなく管理の対象、という古い前提は制度のあちこちに残っています
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>”学生で妊娠したら女性は退学になる”
これが何より間違っていて、労働者には産休も育休もあるのに学生には無いという点が異常なんですよね。こんな女性の人権侵害がまかり通って良いはずがない。
組体操とか熱中症の危険のある運動とか、大人だったら許されない危険な行為が子供には許されているのがおかしいんですよ。
日本の学校が治外法権なのは今に始まったことじゃないけど、子供が少なくなって貴重な今、見直さなければならない。
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『親を悪く言ってはいけない』という言説は道徳のふりをした、親が子を統治をする言説のように思います
アリス・ミラーという心理学者は、親に従順な子供に育てるために本人の意志を折る教育を『黒い教育』と呼び、その最大の装置が「親を敬え、親を悪く言うな」という規範だと指摘しました
この規範の下では、親から受けた怒りは出口を封じられます
そして出口を封じられた怒りは消えず、宛先を変えるだけです
搾取された親にはなぜか「親孝行」を演じないといけず、その裏で溜まった憤怒を本人には向けられず、より弱い自身の妻子の方へ流す
ミラーはこれを虐待の連鎖の中核機構として指摘したんですね
「育ててもらったのだから感謝しろ」という儒教的な常識は、怒りの正当な宛先を封鎖し、次の弱者への転嫁を生み出すという構図を作ってきたんですね
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だから、私は、旧来の「親を悪く言うな」「育ててもらったんだから、感謝するべき」という価値観は、虐待の再生産を後押ししていたと思ってる。常識や社会規範は、発言力の強い者たちによって作られる面があるんだよ。
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