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我妻和樹(あがつま・かずき)
@zukizuki_kun
ドキュメンタリー映画作家/1985年宮城県出身/東京都在住/B型/獅子座/土星人(-)/緑のたぬき/ENFP-A これまでに南三陸町を舞台にした長編3作を発表。宮城ゆかりの仲間達とともにドキュメンタリーを通して人や社会や表現について考える場(コミュニティ)を運営。自身のサイトのブログでたまに長文をドバっと書いてます↓
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もう子どもへの刷り込み加減もどんどん度を超えてきてる。
『みいちゃんと山田さん』のアニメ化に反対し署名をしました。 僕自身はこの漫画を読んでおらず(理由は後述)、断片的なシーンにしか触れていませんが、多くの読者の懸念、また作者及び関係チームが悪意の有無にかかわらず実際にやってしまっていること、そして実際に起きてしまっている弊害を鑑みて、この作品がより幅広い層に不用意に開かれることを強く危惧します。 その理由を、一作り手として表現倫理の面から整理してみました。 大前提として、僕はフィクションであっても、作者は自身の表現に対して社会的責任を負うと考えています。 そして現実のセンシティブな問題、とりわけ社会で差別や抑圧を受けやすい属性を持つ人(いわゆる社会的弱者やマイノリティ)が直面している問題を題材に表現をする場合、その表現が学びや問題改善や当事者のエンパワメントに繋がるか、逆に差別や抑圧を助長することに繋がるかは、受け手以上に作者及び関係チームの姿勢にかかっていると僕は考えています。 よって受け手側は、この姿勢(ここでは思想・知識・品性・倫理観・人権意識などを総合したものを指します)を注視することで、作者及び関係チームに社会的責任を意識させることが重要であると考えています。 具体的には、以下の点を注視することが必要と考えます。 ①作品の描き方 作者自身が現実の問題に対して強い関心や当事者意識(変革の意思など)を持ち、当事者の尊厳をいたずらに消費することなく問題提起しようとしていることが伝わる描き方をしているか。 ②普段の言動 SNSやインタビューなど作品という枠の外でそれを裏付ける発信や態度表明をしているか。 ③作品の扱い方 作者以外の制作チームや出版・宣伝チームなどが作品の特徴や想定される影響を適切に把握し、考慮した上で、それにふさわしい作り方や広め方をしているか(ゾーニングなども含む)。 他にも挙げられるかもしれませんが、取り急ぎこの3点です。 そして作者及び関係チームがこの3点にしっかり対応した上で、それでも作品が悪意(自覚のない差別を含む)を持って差別や嘲笑に利用されたとき、そこではじめて「受け手の問題」の可能性が俎上に上がるのだと思います。 誤解のないように補足しておくと、この世の全ての作品が学びや問題改善に繋がらないといけないという話ではもちろんありませんし、100%問題のない作品でなければならないという話でもありません。表現の自由がある限り、ときには有害成分を含むものも生まれると思いますし、特定の思想・メッセージ性が作品の優劣を決めるわけでもありません。 そして作者の姿勢にも凸凹があって、実際の作品はその複雑なグラデーションの中に位置することがほとんどです。その中で、受け手もそれぞれの基準に照らして作品を許容するかどうかの判断をしています。 しかし、上記の3点が明らかに欠けているというか、それとは真逆な場合、その作品はやはり社会的責任を追及されて当然だと思うのです。 それでいうと、僕がこれまで『みいちゃんと山田さん』に関する情報を断片的に目にした限りでは、この3つのすべてを疑わざるを得ませんでした。漫画内の、とくに思慮深いとも思えない差別的・嘲笑的な描写、作者自身が明かした『みいちゃんと山田さん』制作の動機、出版社が制作した明らかに差別的・嘲笑的なアクリルスタンド、そしてアニメ化決定の告知を意図的にせよ無知にせよ相模原障害者施設殺傷事件に合わせた宣伝。 そのいずれもが、作者及び関係チームの内なる差別や無知を露呈し、センシティブな問題をいたずらに利用していることを示してしまったのではないでしょうか。 そして僕自身、そこから逆説的に感じたのが、この作品は社会への問題提起という一見意義のある体裁を取りながら、その実はマジョリティ(社会的強者や問題がそのままでも困らない特権を持つ側)とマイノリティ(社会的弱者や差別・抑圧・周縁化されやすい属性を持つ側)の権力勾配をそのままに、前者が後者を理解しやすいフレームにはめ込んで蔑み、溜飲を下げることを目的にしているのではということでした。 つまり、作者自身が内なる差別と向き合えないまま、また問題を生み出す社会構造を何とかしたいという当事者意識を本当の意味で持てないままに、自分の興味・承認を満たすために現実の問題を利用し、受け手の好奇心や消費の欲求を煽り、関係チームみんなで困難な状況にある人の尊厳を弄んでしまっているのではないか。そこでは取材によるリアリティの演出も、もしかしたら「より解像度高く描いて称賛される」という作者の自己実現の意味合いのほうが強く、読者の好奇心をそそるスパイスにしかなっていないのではないか。 僕がしばらく前にXでこの漫画の広告が流れてきたときに、そのセンセーショナルな絵面から直感的に「読まないようにしよう」と思ったのも、実はこれらのことが関係しています。そして多くの人の批判を読む限り、これらの印象はあながち間違いではないのではという気がしています。 その当事者意識の低さや欠如(あるいは姿勢の偏向)は、細かい描写の意図はどうであれ、作品全体を貫くメッセージに影響します。そして問題を本当の意味で分かろうとしていない特権側の人間の「自分は分かっている」という居直りを肯定し、現実の無理解や差別・抑圧・搾取を強化することに加担してしまいます。現に、特権側である健常者男性が、本作を自分の内なる差別や無知の自己正当化に利用し、「みいちゃん」を特定の人の蔑称として使い、実害が出ている状況です。このよくない現象は、上述の3点のあり方次第では、ここまでの規模にならなかったと思うのです。 個人的には、この漫画そのものをキャンセルすべきとまでは思いません。それは、読んでいないためにそこまで判断できないというのもありますが、表現の自由は大事と思うからです。(一方、世の中ゾーニングされていたとしても問題ある表現は多々あり、それについては別途考えないといけないですが。) しかし作品がセンシティブな問題を扱い、現実への影響を考えたとき(とりわけ悪影響のほうが大きくなることが予想されるとき)、その作品がどのような媒体でどのように発信されるか、また作者及び関係チームがその問題とどのような姿勢で向き合い、当事者の人生や尊厳にどこまで思いを巡らせているのかは、やはり熟慮する必要があるのではないでしょうか。 それでいうと、幅広い層に、より五感を刺激する形で届けるアニメという媒体で本作を広めることは危険であると僕は思います。多くの批判を受けて公式でも声明を発表しましたが、それで済む問題ではないように思います。そもそも声明では読者に注意喚起をしているわけでもないし、仮に注意喚起していたとしても、3日そこらで根本的な価値観が変わるわけはないと思うので、信用は取り戻せないのではと思います。 また、仮に生々しい表現や差別的な表現に配慮して原作の描写を変更したとして、それはもはや原作とは違うものになるのではないでしょうか。そうなるとこの作品をアニメ化する意味自体よく分からなくなります。 間違っても、僕はこの問題を作者個人の問題にしようとは思っていません。この社会を構成する一人ひとりのエンタメを消費する姿勢(思想・知識・品性・倫理観・人権意識など)の問題と思っています。また、こうした内容のものの需要を生み出した特権側(とくに男性優位社会の女性蔑視)の問題でもあると思っています。 近年ではこの姿勢がどんどん偏向し、多くの人が言っているように、「バズれば何でもいい」とか「売れれば何でもいい」といった価値観が大手を振っている今の状況が非常に恐ろしいです。自分たちの利益のためなら誰かが犠牲になってもかまわないという社会は、より脆弱な人たちの人権や尊厳や命を危険に晒します。「表現の自由」は「無責任の自由」ではありません。 作者及び関係チームが、膨大な批判の声を受け止めて再考されることを願います。
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冗談抜きに「もういくつ寝ると 日本死ぬ」という状況だ。 カネで世論を動かすことができる政権がいよいよ日本の平和主義と基本的人権と民主主義を破壊しにくる。 何だかよく分からないという人は、とにかくいざ憲法改正の国民投票になったら反対に票を投じましょう。みんなでそれを言いましょう。
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