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加藤AZUKI
@azukiglg
怖くなる話全般が本来の守備範囲。 座右の銘は「ないとは思うが念の為」。 SNSは仕事じゃないから誤字があっても直せない。 貴方の前にいるのは「覗き込むと覗き返す深淵」「あなたを映す鏡」だよ。 長文で面倒臭いことを食い下がるけど今日も元気。 最新刊は『閨の背徳怪談』『「弔」怖い話 禁庫開錠』『恐怖箱 化野百物語』
加入 March 2009
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日本人は、割と迷信深く、割とゲン担ぎを気にし、割と祟りを気にし、割と天罰を怖がるので、信仰心はある。なんだったら強いほう。 ただ、「宗教心」みたいなものがない。 特定の宗教だけを選んでそれ以外を唾棄して捨てる、ということが性に合わない。 例えばキリスト教を尊重するとき、平行してイスラム教も仏教も神道も鰯の頭も尊重する。自分が信じていなくても他人が大事にしているなら尊重はするけど、自分が押しつけられたら断固拒否する。 或いは「神の代行者を騙る人間が、神の名を盾に横暴になること」を許さない。 困りごとがあったときに「神様仏様○○様」と詰め合わせセットみたいに願って縋る呪文があるが、神様はGodとは限らず、仏様はどの仏かを特に定めず、○○様に至っては存命のアイドルだったりアニメや漫画の推しキャラだったりもする。 その程度には宗教心がない。 船でも車でも馬車でもいいけど、信仰心はそれらを前に進める推進力、駆動力だとしたとき、宗教心は舵でありハンドルであり手綱にあたる。 宗教者は「正しい舵がなければ直進しない(道徳は宗教から学べ。我々の宗教が正しいから、我々の宗教を学ばない者には道徳がない)」と言いがち。 彼らの宗教を学ばず、特定の宗教に従うことを忌避し、しかし迷信深く、道徳心がそれなりにあり、他の特定の宗教者がそれぞれ属する社会より治安がよいのだとすると、社会治安に必要な倫理観・道徳心を育むのに、宗教は必要ないのでは? ……てなる。 日本は繰り返し「より宗教的であろうとした者たち」が事件や騒擾を起こし、社会悪として失墜していった歴史があるので、特定の宗教には潜在悪という印象が強い。 悪魔の詩事件はイスラムの印象を決め、オウム真理教事件はインド仏教の印象を歪め、イエスの方舟事件はキリスト教の印象を歪めた。 「同類扱いされたら社会的に死ぬ」ので。 だから、内心に何らかの宗教を持ってる人でも人前で自分の宗教を宣言したりしない。 自分の宗教を否定されないために他人の宗教を否定しない。その結果、複数の「神様」が並存することになる。 日本の多神論的信仰感は「複数の神がいる一つの宗教」「神道」を必ずしも意味しない。 人の数だけ信じる神が別にいるなら、それらの神をそれぞれ全て肯定する。結果的に「八百万の中にアブラハムの神Godもいる」という考え方になる。 事実として異なる宗教を持つ人が同時に存在してる訳だから。アブラハムのどの宗教にも、アジア・日本は出てこない。だけど我々はいるし、彼らの宗教に定義されなくても日本の歴史・社会・今はあるわけで、別に特定の外来種の宗教に、社会を統治されなくても問題なくない?それらが後から来て大きな顔するのを認める必要ある?てなる。 まあ、だいたいそうなってる。 あと、檀家寺は自分の宗教だから行くわけではなくて、「祖先がその方法で葬られてるから尊重してる」。 日本だと九割以上が仏式で葬られ弔われるため。 神社に参拝するのは、「その土地の人が大切にしているものを尊重する」ため。 神仏どっちも「誰かの大事なもの」だから尊重するのであって、自分の大事なものであることと必ずしもイコールではない。 「自分の宗教ではないから蹂躙していい」 ということを一度でもやったら、当人、その人が信仰する宗教、その人をそういう傲慢にしたもの、それに連なるもの全てが信用を失う。表層的なつきあいは続いても、内心の心のシャッターはガチャンと閉められて終わりになる。
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