鮭よ。川を遡るのが忙しいからといって、いくらの世話を白米に任せるのはやめなさい。いくらたちは、まさか自分が母なる鮭の隣で輝いていると思って、見知らぬ米粒の上に並べられているとは夢にも思っていないぞ。親子の再会だと思ったら、再会した場所が釜の中だったなんて。いくらの立場になったら、なかなかのホラーである。しかし人間は、それを「鮭といくらの親子釜飯」と呼び、目を細めて喜ぶ。
自然界では別々の時間を生きる親と子を、ひとつの器の中で再会させるのである。
鮭は身となり、いくらは命の粒となり、米はその両者を黙って受け止める。
親子とは、いつまでも同じ姿で隣にいることではない。親が残したものを、子が受け継ぎ、その二つが誰かの明日を満たすことなのかもしれぬ。
つまりこの釜飯は、食べられる家系図である。
少々せつなく、たいへん美味しい。
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