ある取材で、廃校になった小学校を訪れたのは、雪の匂いがする夕方だった。音楽室の扉を開けると、そこには古いピアノが一台、取り残されていた。木目はひび割れ、鍵盤には厚い埃が積もり、中央の白鍵が一本だけ折れていた。それでも私は、そっと蓋を開けた。「まだ、歌いたい?」問いかけても、返事はない。代わりに廊下の向こうで、床板が小さく鳴った。振り向くと、黒髪の少女が扉の陰からこちらを見ていた。
「あなた、このピアノを知っているの?」
少女は少し迷ってから、うなずいた。
「お母さんが子どもの頃、弾いていたんだって。でも、学校がなくなったから、もう誰も来ないの」
その言葉が、妙に胸へ残った。
人も建物も楽器も、壊れたから終わるのではない。
誰にも必要とされなくなったと思った時、静かに終わってしまうのだ。
翌日、私は道具を持って戻った。
少女と二人で埃を払い、固く絞った布で鍵盤を拭いた。夜になるとランタンを灯し、凍える指に息を吹きかけながら、折れた白鍵を少しずつ修復した。
「クレアさん、直ったら弾いてくれる?」
「いいえ。最初に弾くのは、あなたよ」
少女は慌てて首を振った。
「私、弾けないよ」
「最初から弾ける人なんていないわ。最初の一音は、上手に弾くためにあるんじゃない。続きを始めるためにあるの」
春の初め、修復したピアノの前に少女を座らせた。
噂を聞いた村の人々が、一人、また一人と音楽室へ集まってきた。少女の手は震えていた。私はその小さな背中に手を添えた。
やがて、一本の指が鍵盤を押した。
決して美しい音ではなかった。少し濁り、少し震えていた。
それでも、その一音を聞いた老人が涙を流した。
「校歌だ……」
誰かが続きを口ずさみ、別の誰かが重ねた。閉ざされていた音楽室に、何十年も眠っていた歌声が戻ってきた。
少女は泣きながら、何度も鍵盤を押した。
その日から、廃校には再び人が集まるようになった。子どもがピアノを弾き、老人たちが歌い、窓辺には季節の花が飾られた。
私は、役目を終えた古い白鍵に桜色のリボンを結び、今も大切に持っている。
あのピアノを直したのは、私ではない。
「もう一度、音を聞きたい」と願った少女と、忘れたふりをしていた村の人々だ。
壊れたものを救うのは、完璧な修理ではない。もう一度、その続きを信じてくれる誰かなのである。
※特定を防ぐために、内容は大幅に変えています。え?これあれのこと?って思っても、勘違いですので、ご安心ください。
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