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正木伸城
@nobushiromasaki
マーケター・イベントプロデューサー・経営者|他、約15の事業に取締役や顧問として参画|常に3冊持ち歩く活字好き|仏教愛好家|哲学愛好家|『監獄の誕生』が座右書|うつ病→精神病棟→36歳から本格的に社会人デビュー →3社を経て現職|著書は共著あわせて3冊既刊|献本書評も受けつけています|取材・仕事の依頼はDMにて📩
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正木伸城
@nobushiromasaki
2026.09.19 05:42
本書、面白すぎる。科学を信頼できるのは「正確だから」ではなく、科学は誤り得るので、誤りを補正する作法を制度に取り入れている、だから信頼できる、というのだ。1846年、海王星は望遠鏡による観測より先に、計算をしたうえで存在を予言された。当時、天王星の軌道はニュートン力学の予測からずれていた。理論の予測と観測が食い違ったのだ。科学哲学者カール・ポパーの有名な基準に素直に従えば、ここでニュートン理論は「反証」されたことになる。ところが、天文学者たちはこの理論を捨てなかった。フランスのルヴェリエとイギリスのアダムズはそれぞれ独立に、未知の惑星の重力が天王星を乱しているのだと仮定し、その位置を計算した。ベルリン天文台のガレが、予測された場所のすぐ近くに新しい惑星を見つけた。思わず、漫画『チ。』を連想してしまう。 本書は第1章でこの逸話を使って、ぼくらが何となく信じている「科学らしさ」の基準に揺さぶりをかけてくる。ポパーは1934年の『科学的発見の論理』以来、科学と疑似科学を分けるのは反証可能性だと主張した。どんな観察結果が出ても説明できてしまう理論は、強い理論なのではなく何も言っていないに等しいのだ、と。ポパーが念頭に置いたのはフロイトの精神分析やマルクス主義の歴史理論で、対照的に称賛したのがアインシュタインだった。 ところが、海王星の例はこの基準がそのままでは使えないことを示している。予測が外れたとき、理論を捨てずに補助仮説を足してすくい取ろうとする。これは、ポパーがマルクス主義者を非難したのと同じ手口だ。それなのに、この場合は科学的には大成功だった。しかも、同じ手口は次の例では失敗している。ルヴェリエは、水星の軌道のずれも未知の惑星で説明しようとしたが、そんな惑星は見つからず、ずれを説明したのは半世紀以上あとの一般相対性理論だった(水星の話は本の外からの補足である)。粘るべき時と捨てるべき時を事前に見分ける規則は、実は現在も存在しない。オカーシャは、科学に共通の本質的な特徴を一つ取り出せるという想定そのものを疑っている。ウィトゲンシュタインが「ゲーム」という語について述べたように、科学と呼ばれる営みは緩やかな類似でつながっているだけなのかもしれないのである。 そもそも、何かを説明するとはどういうことなのだろうか。 カール・ヘンペルが1948年にパウル・オッペンハイムと発表した被覆法則モデルは、説明とは一般法則と初期条件から現象を論理的に導くことだと定式化した。だが、オカーシャは二つの反例を挙げる。旗竿の高さと太陽の角度から影の長さは導けるが、同じ法則を使えば影の長さから旗竿の高さも導けてしまう。でも、影が旗竿の高さを「説明する」とは誰も言わない。 もう一つ例を出そう。避妊薬を飲み続けている男性が妊娠しないのは、避妊薬を飲む人は妊娠しないという法則から導けるから、という「説明」ができる。論理の形は整っている。もちろん、これは説明になっていない。足りないのは因果の向きと関連性である。説明という日常語の底に、因果というもっと厄介な概念が口を開けている。そしてこれについて、多くの人は因果が混同していることに気づかない。 たとえば、電子やクォークは本当に存在するのかという実在論論争がある。実在論者の切り札は、ヒラリー・パトナムが1975年に述べた「奇跡論法」だ。観察できない存在について語る理論がこれほど精密な予測に成功しているのに、その理論が近似的にすら真でないとしたら、成功は奇跡になってしまう。強い論法である。 反実在論の側にも強い論がある。ラリー・ラウダンは1981年の論文で、フロギストン説、熱素説、光のエーテル説など、かつて経験的な成功を収めながら、中心に据えた存在がのちに否定された理論を列挙してみせた。過去の成功した理論の多くが偽だったのなら、いまの成功した理論が真だと考える根拠は何なのか。バス・ファン・フラーセンは1980年の『科学的世界像』で、科学の目的は真理ではなく経験的十全性、つまり観察可能な現象を正しく扱うことだという立場を打ち出した。 オカーシャはどちらにも軍配を上げない。入門書としての節度でもあると思うが、実際に決着がついていないのも事実である。 そして――最終章は「科学とその批判者」、具体的には科学主義、科学と宗教、そして「科学は価値から中立なのか」の三節からなる。科学主義の節で扱われるのは、科学こそが知識の唯一の正統な形だという態度とそれへの反発だ。科学と宗教の節では、アメリカの公教育で進化論に対抗して創造論やインテリジェント・デザイン説を教えるよう求めてきた運動が取り上げられる。ここで第1章の線引き問題が戻ってくる。創造論は科学ではないと退けたい時、ぼくらはどんな基準を持ち出せるのか。反証可能性が万能でないと知ったあとでは、この作業は思ったより骨が折れる。 ぼくが連想したことをここで記す。リチャード・ラドナーは1953年の論文で、科学者は科学者である限り価値判断をしていると論じた。仮説を受け入れるかどうかは、証拠が「十分に」強いかどうかで決まる。だが、どれだけ強ければ十分なのかは、間違えたときの代償の重さに左右される。薬の毒性の判定とベルトのバックルの不良率の判定とでは、求められる確からしさが違う。ヘザー・ダグラスは2009年の著書でこの論点を復活させ、政策に関わる科学では証拠の評価そのものに社会的・倫理的な価値が入り込むことは避けられず、だからこそ入り込み方を透明にすることが大事なのだと主張した。反対に、価値の混入を認めれば科学の権威が掘り崩されると警戒する論者もいて、ここも係争中である。 感染症の流行期に、ぼくらは「科学に従え」と「専門家を疑え」のあいだを何度も往復した。訳者の直江清隆さんは本書に寄せたメッセージで地球温暖化に触れ、それがどのようにして科学的事実だと結論され、その説明にどの程度の信頼性があるのか、気になることだらけだと書いている。心理学では2015年、オープン・サイエンス・コラボレーションが主要誌に載った100件の研究を追試し、元の研究の97%が統計的に有意な結果を報告していたのに対して、追試で有意になったのは36%だったと発表した。科学は間違える。しかも、割と盛大に。 それでも、この本を読み終えて科学への信頼が減ったかというと、逆だった。海王星の位置を計算する天文学者も旗竿の反例をひねり出す哲学者も100件を追試する心理学者も、やっていることは同じだ。自分たちの確信に、自分たちで疑義を向け、突破を試みている。科学が信頼に値するのは、正しいからではない。間違いを見つける作法を、制度として持っているからだ。航空業界の事故防止策はよくその理想としてあげられるが、同業界も「人間は間違い得る」ということを制度に組み込んで「失敗から学ぶ」仕組みを作っている。 科学を疑う技術と、科学を信頼する技術は、同じ一つの技術だと思う。科学は間違い得るので、それを適切に評価しようとする。それができるから科学は信頼できるのだ、という理解が科学との付き合いにおいて重要である。 『哲学がわかる 科学哲学 新版』サミール・オカーシャ著、直江清隆・廣瀬覚訳、岩波書店
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