登録して招待リンクを共有すると、動画再生報酬と紹介報酬を獲得できます。

検索結果 そう言えば今はボブったん?
そう言えば今はボブったん? コミュニティ
1つのキーワードが1つのコミュニティです。
コミュニティ作成
アカウント
見つかりません
そう言えば今はボブったん? を含む検索結果
#カセットテープ #ダイヤル式電話# #肩パッド# などなどの昭和トークから #乃木坂46# の6期生への期待と振り返る自分自身のあの頃など #秋元真夏# さんの #卒アルラジオ# は今夜も安定の「まろやかトーク」です。 #水にふやかしたような#? #そう言えば今はボブったん?#
もっと見る
【空家対策のジレンマ】 そう言えば19日の一般質問で興味深い議論があった。空き家対策だ。野田市にはなんと約1万件の空き家があるらしい!!!(空き家バンク登録は僅か2件) 空き家対策と人口増加策(移住者獲得)を併せて、空き家のリフォーム代を助成する等して野田市の空き家に移住者を確保しようという政策等が検討されている。つまり安く一軒家に住めるし野田市は東京通勤圏内だから、それを期にベッドタウン野田市にいらっしゃいという訳だ、アイデアは非常に素晴らしい👍👍👍 ただし、地方のこういう政策によって(別に移民政策という訳ではないのだけれど)、安い家が手に入るなら~と移住してくるのは、多くが外国人だったりするのだろうか🙀 空き家対策としてとても良い政策なのだけれど、今の日本の情勢では野田市が外国人が移住してきやすい街になる可能性があるというのはちょっとやだなというジレンマ。どうしたものか。 野田市議さいとうひろき
もっと見る
【光は、答えの姿をしていない】 どうしたらいいか分からない夜を越えて、それでも今日ここにいるあなたへ。 人生には、 どちらへ行けばいいのか 分からなくなる時がある。 進んだ方がいいのか? 立ち止まった方がいいのか? 手放すべきなのか? もう少し信じてみるべきなのか? 誰かに聞いても、 本を読んでも、 いくら考えても、 答えだけが 見つからない。 そんな時、私たちは、 「早く答えを出さなきゃ」 って、 自分を追い詰めてしまう。 でもね。 きっと光は、 いつも「答え」という姿で やって来るわけじゃない。 今日、 ほんの少しだけ眠れたこと。 誰かの言葉に、 一瞬だけ心が緩んだこと。 窓から入った風が、 少しだけ気持ちよかったこと。 そして、 苦しいままでも、 今ここで ひとつ呼吸をしていること。 そんな小さなものの中にも、 光は静かに宿っている。 人生を変えるほど 眩しくなくていい。 未来を信じられるほど 強くなくてもいい。 暗闇の中で、 「もう少しだけ、ここにいようかな」 そう思える程度の光でいい。 私も時々、 何が正しいのか分からなくなる。 先が見えなくなって、 自分の選んできた道さえ 信じられなくなることがある。 それでも、 息を吐いて、 また吸って。 その繰り返しの中で、 「ああ、まだここにいる」 と思う。 それだけの日があっても いいんじゃないかな。 迷っているあなたは、 止まっているわけじゃない。 泣いているあなたも、 壊れているわけじゃない。 今はただ、 心が次の一歩を見つけるまで、 静かな場所で 呼吸している途中なのだと思う。 だから今日、 答えが見つからなくてもいい。 明日のことまで 分からなくていい。 まずは、 この一呼吸ぶんだけ 生きてみよう。 光は、 いつも眩しい形で 来るとは限らない。 あなたが今、 静かに吐いたその息も、 きっと、 まだ消えていない ひとつの光だから✨ 🌿今、答えが見つからずに迷っている人へ。 何を言えばいいか分からなければ、 「✨」だけ置いていってください。 見つけたら私からも、 小さな光をひとつ返します。 答えは出さなくていい。 少しだけ、 ここで一緒に迷っていよう。 ∞breath
もっと見る
「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にはめるか、現代の風俗店に問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段は「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、私は今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。   当時の文庫本の 後書きにこう書きました。 「どうしようもなく寂しくて、誰かに電話をしようと アドレス帳を開く。でも結局ボタンをそのままそっと携帯を閉じる。そんな夜に読んでほしい」   いつもの葉山透からはかけ離れた ポエティックな文章⋯。 でも 誰にだってそんな夜は あると そんな夜にこそ横にいて欲しい物語があると、そんな気持ちで書きました。 と、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、20年前に絶版になってしまった物語を、同人誌で復刊しました。 「この世界の何処かにいる誰か」に届くことを願って。20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に。 文庫本 2冊分に、一人の作家の20年が詰まっています。 通販もしています。 リプ欄にのせておきます。   一人でも多くのやるせない夜を抱えた方に届きますように。
もっと見る
なぜ、スクエニから『ヴァルキリープロファイル』のような名作が生まれにくくなったのか?おそらく、作りたいものを、会社の構造の中で最後まで守り切るのが難しくなったのだろう。ヴァルキリープロファイルは企画書だけを見れば、かなり危うい。主人公は戦乙女。仲間は基本的に死者。明るい冒険譚ではなく、死に際の記憶を拾っていく物語。エンディング分岐も分かりやすくない。システムも独特。戦闘も横スクロール探索も、当時としてはかなり異質だった。 今の社内会議に出したら、まず聞かれる。 「このゲームのターゲットは誰ですか」 「初見ユーザーは離脱しませんか」 「海外展開の訴求軸は何ですか」 「シリーズ化できますか」 「ライブサービス化できますか」 「動画配信で映えますか」 「既存IPと比べて投資回収の見込みはありますか」 この質問は、間違っていない。 会社である以上、売上も利益も必要。 開発者の生活もある。株主もいる。広告費も、人件費も、外注費も、ローカライズ費も、すべて昔とは比べものにならないほど重くなった。 だが、ここに落とし穴がある。 名作は、正しい質問だけでは生まれない。 ヴァルキリープロファイルの本質は、市場がまだ言語化できていなかった欲望を、先に形にしてしまったことにある。 人は、死者の物語をゲームで追体験したかったのか。 北欧神話と日本的な情念が混ざったRPGを求めていたのか。 悲劇的なエインフェリアたちの人生を見届け、神界へ送る体験を欲していたのか。 発売前のアンケートで聞いても、おそらく誰もそんな答えは書かない。 けれど、出された瞬間に分かる。 「ああ、自分はこれを待っていたのか」と。 これが名作である。 今のスクエニが苦しんでいるのは、才能不足ではない。むしろ才能はある。絵を描ける人、音を作れる人、物語を作れる人、システムを組める人、世界に通用する映像を作れる人はいる。 しかし、スクエニは、強いIPを持ちすぎている。 ファイナルファンタジー、ドラゴンクエスト、キングダム ハーツ、ニーア、サガ、聖剣伝説、スターオーシャン、そしてヴァルキリープロファイル。 これは財産であると同時に、重荷でもある。 なぜなら、社内のリソース配分を考えるとき、完全新作や中規模RPGより、既存IPの方が説明しやすいからだ。 「FFです」 「DQです」 「過去作のリメイクです」 「有名IPの派生です」 この方が、通しやすい。海外にも説明しやすい。販売計画も立てやすい。広告も打ちやすい。 社員の立場で言えば、失敗は怖い。 新規IPで失敗すれば、「なぜ既存IPを活用しなかったのか」と言われる。作風で失敗すれば、「もっとユーザーに寄せるべきだった」と言われる。中規模タイトルで利益が薄ければ、「その人員を大型タイトルに回すべきだった」と言われる。 すると、企画は自然と安全側に寄る。 不親切な構造は親切になる。 暗い物語は少し明るくなる。 難しいシステムは単純化される。 分かる人にだけわかる演出は、全員に伝わる説明へ変えられる。 そうやって完成するものは、悪いゲームではない。 だが、心の奥に傷を残すゲームではなくなる。 ヴァルキリープロファイルが今も語られるのは、完成度だけではない。あの作品には、今の大企業が嫌がる要素がたくさん入っていたからだ。 暗い。 難しい。 説明不足。 万人向けではない。 けれど、そのすべてが作品の本質だった。 昔のスクウェアとエニックスには、その中間地帯があった。 今、その中間地帯がない。 大作は重すぎる。小作は軽すぎる。スマホは継続運営が重い。リメイクは原作への責任が重い。結果として、純粋な変な新作が生まれる余白が少ない。 本当は、スクエニほど変なゲームを作れる会社はない。 神話、死生観、宗教、哲学、機械、魔法、召喚獣、王国、終末、輪廻、記憶、罪、赦し。 こういう重たいテーマを、エンタメとして成立させてきた会社だ。 だからファンは今でも期待している。 「スクエニなら、またやってくれるんじゃないか」と。 だが社員側から見ると、その期待はありがたくもあり、怖くもある。 ファンは昔のスクエニを覚えている。 会社は今の市場を見ている。 開発者は、その間で板挟みになる。 『ヴァルキリープロファイル』のような名作が今なかなか生まれない理由は、クリエイターが情熱を失ったからではない。 むしろ、情熱はある。 『ヴァルキリープロファイル』は、親切な作品ではなかった。だが、誠実な作品だった。死者に対して。物語に対して。プレイヤーの孤独に対して。 スクエニが取り戻すべきなのは、 「これは売れるか分からない。でも、これを作らなければ、うちがうちでなくなる」 そう言える企画を守る覚悟である。 名作は、管理から生まれない。 名作は、管理された狂気から生まれる。 スクエニには、まだその血が残っている。
もっと見る
>なぜ、1982年の設定なのか? >「問い」を立てると、映画理解が深くなる 『オークストリートの異変』が良かった! 古き良きハリウッド映画を彷彿とさせる。 古き良きといっても、すごく昔のハリウッド というわけでもなく、 私が映画に夢中になっていた10代の頃。 妙に懐かしさを感じさせます。 夫婦仲が不仲で離婚寸前の 微妙な夫婦。 (ユアン・マクレガーとアン・ハサウェイ) そして、2人の子供たち。 中流家庭の住宅街に、 突然、恐竜が出現しパニック陥る。 家族が力を合わせて、その危機を乗り切る・・・。 ストーリーは単純ですが、 細かな描写が良くできているのです。 【以下、ストーリーの記述とネタバレがあります】 ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽    なぜ、舞台が80年代のアメリカなのか? そこを考えると、 本作のおもしろさが倍増します。 本作は、70年代頃に流行った、 動物が巨大化する動物パニックもの を彷彿させるのです。 しかし、70年代、80年代の映画には、 リアルな恐竜は映画には登場しません。 1993年の『ジュラシック・パーク』で、 リアルな恐竜の動きに度肝を抜かれた! だから、80年代の映画には、 リアルな恐竜は出ていないのです。 つまり、 80年代のアメリカの街並みに 恐竜が出現する! というのは、ありそうで、 なかったパターンなのです。 なんで80年代の舞台設定なんだろう? 何か「懐かしい」なあ、と それを考えながら、ずっと見ていきます。 郊外の住宅街の街並み。 子供たちが自転車に乗って走り回るシーンは 『E.T.』を思い出します。 というか、『E.T.』そのものです。 恐竜がいつ現れるのか、というハラハラは 『ジョーズ』や『ジュラシック・パーク』 にも通じるし、音楽もスピルバーグ作品っぽい。 ということで、 スピルバーグ作品へのオマージュ、 というか「リスペクト」が満載なのです。 長女がカール・セーガンの「コスモス」 に傾倒するエピソードや、 人物の服装などから1980年代前半 だろう・・・と予想できますが、 一体、何年が舞台なのだろう? と思って見ていると、 最後の方で舞台設定が「1982年」と明かされます! なななんと・・・ それってスピルバーグ監督の『E.T.』の 公開年じゃないですか。 『E.T.』っぽい、じゃなくて確信犯ですね。 『E.T.』へのリスペクト。 そういえば、『E.T.』では両親が離婚して、 父親が不在となり、非常に寂しい思いをしていた。 そんな、エリオット少年が、ETと出会い、 友情を育む話。 本作では、離婚寸前の夫婦が、 今回の事件を通して、どう変わるのか? というのが、一つの見所。 家族愛、家族の助け合い。 家族関係の修復。 思春期の多感な心理。 夢の実現。 「下手(べた)なハリウッド映画」 と言えばそれまですが、 ある意味、それらは「普遍的」なテーマ なのです。 「家族写真」をアップでうつすシーンが、 何ヶ所かありますが、 それも凝縮した「家族愛」の描写と見えます。 最近は展開が早く、 アクションがド派手な作品が主流。 アクション映画、パニック映画で 「家族関係の大切さ」をじっくり描く というのは、ほとんどみかけなくなったような・・・。 『オークストリートの異変』は、 ありそうでない作品なのです。 失って、はじめてわかる大切さ。 パートナーの愛情も、 失って、はじめてわかる大切さ。 失う前に気付きたい。 ラストシーンにはも、涙があふれます。 本作のもう一つの「問い」は、 「母親」イメージの薄いアン・ハサウェイを なぜ起用したか? これも、映画の序盤から気になっていたのですが、 ラストシーンで見事に説明されます。 『プラダを着た悪魔』で、 ジャーナリストとなり、「自分の本を出したい!」 という夢をもっていた「アンディ」。 アン・ハサウェイの代表作と 見事に重なるのです。 家族だけではなく、女性としての自立というテーマ。 今では当たり前ですが、 米国で女性の社会進出、女性の自立が叫ばれ、 法制化されたのが1980年代なのです。 「問い」を立てて映画を見ると、 映画の理解が深まり、 より映画を楽しむことができるのです。 #オークストリートの異変 ##映画 ##樺沢映画#
もっと見る
今まで何度か左派の方に「お前の意見は三島由紀夫の言ってることに反する。保守を名乗って恥ずかしくないのか」とか「そんな発言をするとは三島を読んだことが無いのか」とか言われた事があるんですが、意外と左派の方のほうが三島に対する信頼感を持っているんでしょうか。私も勿論、なるほどそういう風に考えてたんだなぁという先人の考え方への尊敬の念はあるのですが、だからといって現在の環境との違いもあり、内容に関しては素直に頷ける部分もある一方で、今こんな事を言っても全く共感されないだろうなぁという感想を抱く場面も少なくない訳です。なので、まぁ私個人の意見で言えば三島由紀夫がどう捉えているかという事は、私の意見にあまり影響を与えないです。
もっと見る
「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にあてはめるか、現代の風俗店にし時代的な問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段はプロットを作る時「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義です。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。 文学フリマ。 「自分が文学と信じるものを作り手が自ら売る」 商業のように「儲けを出さなければいけない」という前提はありません。書き手が負債を請け負う覚悟があればいい。 (同時に、商業で確立されている編集テクニック、装丁、営業広告、全国どこでも1冊から取り寄せできる流通と書店さんというものが、どれだけ洗練されていてありがたいものか実感します。このシステムを持続可能にするには、やはり売れなければいけないな、と) とまあ、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、細々と通販しているぶんを、文学フリマ大阪14にも持っていきます。 商業ベースにはのらなくても 「世界の何処かにいる誰か」に届けたい物語を、20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に、一冊の同人誌にまとめて。
もっと見る
さて本日は、名古屋大曽根へ といっても目的地は三菱電機 名古屋製作所ではなく、充填包装機メーカーの東陽機械製作所さんへ。電気CAD導入から定着させるまでの苦労話を聞いてきました いやー、トップと現場、今と将来、ベテランと若手というあらゆる板挟みに苦労した話を聞き、DXやらデジタル化の推進担当のツラさが分かりました 当時の経営陣の命令で電気設計に電気CADのEplanを導入したのですが、トップダウン過ぎて社内はドン引き。今の担当者も事前ヒアリングで「ウチにはいらない。合わない」と答えたにもかかわらず、トップの一存で導入がきまり、しかも担当に抜擢。社内の誰もが効果を疑問視、反対だったにも関わらず強引に導入が決まったことから、EPLANというツールも担当者も、まわりからの印象は大マイナスで大逆風が吹いているところからのスタート この時点で僕なら担当を辞めたくなる。。。 はじめは担当者もトップの指示のeplan使用をスルーして無視してたけど、さすがに圧に屈して1枚だけ図面を作成。そして、それを現場におろしたら酷評の嵐。 現場や技術を知らない若僧が、なんか勝手に数字や指示が入っていて、今までとは違う形式の図面を出してきたので、製造現場のベテランらは自分の職域や技術を否定された気がして大激怒。俺たちのルール、今までの現場のやり方と違うから読めない、やり方を戻せと担当者へ向けて非難殺到。しまいにゃeplanの図面はやりたくないという声も聞こえてきたそうで 僕ならここでも辞めたくなる。。。 それでも担当者はグッと堪えて、現場の言う通りに修正を繰り返す。そして意地でも昔のツールを使わず、eplanで描いて出図して修正というのを何回も何回も粘り強くやったことが響いたのか、少しずつ現場のやり方に近い図面が描けるようになり、且つ現場もeplan式図面に慣れてきたことから関係も改善傾向に。今では設計部門は新規案件の図面は100%eplanで描き、現場はそれをもとに作る形まで進んだとのこと 猛反対にあって、文句も沢山言われるなかで、なんでそこまでできるのか?腐って辞めたくなかったのか?と担当に聞いたところ、「社命であって自分から好き好んで始めたわけではないけれど、言われっぱなしは悔しいし、なんとか踏ん張って最後に見返してやるという気持ちが一番。それと、新しいツールを使うことは自分のスキルアップになるし、まだ自分がうまくできていないから言われるのであって、成長すりゃ言えなくなるから頑張るんだ」とのこと。 いやー、その心の強さと意識の高さに泣けてくる さらに、トップが代わり、eplan導入を強引に進めた方が退任し、次の代表に変わった後も、手綱は緩めずeplan活用を推進 その理由については、 「現場の製造部門も高齢化してきていて、新しい人が来たり、外部の協力会社にお願いする時、情報の足りない図面を出されてもその人たちは作れない。今の自社のやり方では未来がない。 だったら、誰でも一見で作れるような図面を作っておけば、未来はつながる。そういう仕組みを作りたいんだ」とのこと まわりや会社のことを考え、中長期のことも見ているのだから、本当にスゴイ。このおかげで、設計製造プロセスだけでなく、製品やサービスのあり方、考え方なんかにも影響を及ぼしているようです とは言え、今はマイナスからのスタートを挽回し、逆風が弱まった程度。まだまだ本格的に運用するのはこれからとのこと。いやー、ホント心が強い などなど にしても、DXが進まないのはトップの力不足だーなんてことをよく聞きますが、今回のように、トップがリーダーシップを発揮して入れても現場がソッポ向いて進まないケースもあるんですね。 結局、導入前に、それを入れる意図や目的、背景、期待する効果なんかが説明不足で、関係者に同意がとれてないのが大問題。そこをクリアし、言質がとれていれば、ここまでこじれるのは避けられるんしゃないかと想像します。そこが一番難しいんでしょうけど。。。 ちなみに、この東陽機械製作所さん、僕らの知ってる食品や医薬品やらの充填包装やパッケージの機械を作っています。あさげやゆうげ、ブレンディのスティックコーヒー、永谷園のお吸いものなどなど。粉系の小さな包装が得意です 基本、装置はカスタムで、お客の要望に合わせて一品一様で作るので、大手なんかからも声がかかるとのこと。いやー見知ったパッケージを見るとテンション上がりますし、いつもありがとうございますと感謝しちゃいますね笑
もっと見る