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しろみ 本日、3/25で11歳になりました🐈🎈 バースデーボーイ 何歳になっても紙の上が好きです。 毎日毎秒愛おしい存在。 しろみに出会えて私は本当に幸せ者だー♡ ## #毎月25日は# #しろみの日# #ラグドール# #その紙私の健康診断の問診票なんだな#
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そのテンションを私の中にも宿したいです笑 折り紙企画私もやってみようかな 折り紙結構好きだったんですよね子供の頃 めっちゃ手順多い菊の花とか折ってたな… 紙を八角形に切るとこから始まるやつ #mond_min_8yn#
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編集長コラム・伴侶が封じた詩 私が知る祖父は、穏やかでお茶目な人だった。 絵を描くこと、山を歩くことが好き。横浜の祖父母の家に遊びに行くと、大学生の私に「ほら、これ素敵だろ」と、山で拾ってきた石ころをくれた。太極拳の道場では、師匠の指導を無視。独自の舞を繰り出して楽しむ。そんな人だ。 祖父が亡くなった後、祖母から昔語りを聞くようになった。そこには、私の知らない祖父がいた。 祖母は祖父よりも20歳近く年下。満鉄の理事をしていた父、後にイエール大学で博士号を取る兄ら「エリートの家族」で育ったが、20歳そこそこで祖父と出会う。祖母いわく「脱線した」。祖父には、戦前に別れた妻との間にもうけた息子がいて、祖母の親は「苦労する」と反対した。 それでも、「好きになっちゃったんだから仕方がない」。祖母は家を出て、結婚を強行した。 祖母にとって、驚きの連続だった。 同居する祖父の妹が、進駐軍の将校たちを相手に横浜でクラブを営み、家計を支えていた。その妹は、戦時中は上海でクラブのママをしながら、日本軍のスパイとして情報を集めていた。祖母には「お客の米軍の将校に、私がスパイだったことがバレたら大変だから、ヒヤヒヤする」と言った。 大体、祖父が戦前に何をやっていたかがよく分からない。どうやら思想を取り締まる「特高警察」に目をつけられていたらしい。祖父の叔母が、横浜の港から恋人とソ連に亡命した際、祖父が連絡役を務めたことがきっかけだった。 逮捕、勾留された経験もあり、その時のことを祖父は短歌にしている。 あやまちしとは思はねど鉄窓のある室に入れられればかなし 負けるかと歯噛みしあれど鉄の扉に鍵かける音が身に沁みにけり 吾が智慧に思ひあまりて堪えるなしつめたき壁に指触れてみる 指触ればしみじみ寒し留置場の壁隣りの室におんなの声する 吾がためにひとりの母は髪切りて二月の夜半をお百度踏み給ふ 天地のめぐみをうけしうしし世にここだ鉄窓を仰ぎつなくも 耐えてきし男の涙こらへられず母にだきつきて声をあげて泣く ▽「総てが自分の滅びる姿を賭けている」 戦後も祖父は、権力に対する反抗心を持ち続け、出版の仕事を手掛けていた。作家相手に「信念を曲げてまでカネになる作品を書いて恥ずかしくないのか」とけんかばかり。「信念を曲げるくらいなら飢え死にした方がましだ」とまで言った。 だが祖母は構わなかった。むしろ、そういうところに惚れていた。自分が洋裁の仕事で家計を支えるから、嫌な思いをしてまで働かなくてもいいと伝えた。実際、祖母が一家の食い扶持を稼ぎ続けた。私が「おじいちゃんは恵まれ過ぎだな」と羨ましがると、祖母は「金銭的な支えがあるより、心の支えがあった方がいい」と言っていた。 ただ祖母は、共に人生を歩むのに当たり、一つだけ条件を出した。 それは、詩を書くのはやめるということだった。 祖父は詩作をライフワークとしており、戦後も自分が編集・発行人となって『第一書』という詩集を、詩人仲間と共に出版していた。1951年の『第一書』では、「火花の匂い」という詩を発表している。 無慈悲な倦怠と悔恨家たちのために 腐った階段を降りる救世者 酔いどれた最高の地図の前で 人間の乾いた心は火のように息苦しく 白鳥の背に乗った明徹な像は ふたたびこの湖上には還らない 貧しい者は貧しさのまま 傷は傷のまま 権力は王座に眠ったまま 白い紙の鏡はうつろな眼の中で 力学の陰惨な壁に汚される 痛ましい渇望と拙棄と灰の底で 冷酷な火薬に嘯き ああ 総てが自分の滅びる姿を賭けている 祖母は祖父の詩に「気が滅入る」と感じた。自分と暮らすならば、詩を書くのだけはやめてほしいと願った。 伴侶からの願いを受け入れ、祖父は詩作を封じた。 ▽「お前との暮らしがあるだけだ」 1枚の写真がある。祖父母が羽田空港で写した写真だ。戦後しばらくは同居していた祖父の妹は、クラブに来ていた進駐軍の米国人と結婚して渡米。祖父母の家に遊びに来ていた妹が、米国へ戻る際に羽田空港まで見送った。その際に撮影した祖父母のツーショットだ。写真には祖父の言葉が添えられている。 「愛という言葉は知らない。お前との暮らしがあるだけだ」 祖父が亡くなった直後には、祖母の元に手紙が届いた。祖母は「お化けかと思った」とおどけていたが、ふたりが筑波万博へ出かけた際、10年後に届く手紙として祖父が祖母あてに投函したものだった。手紙は「僕はもうこの世にいないだろう。淋しくないかい」で始まり、「僕は君と一緒になれて本当に幸せだった。ありがとう」と感謝の言葉が綴られていた。 詩作を封じ、愛する人との暮らしを第一に人生を送る。覚悟ある祖父の決断であり、それを最後まで貫いたのは立派だと思う。 しかし同時に、「今の時代を祖父があの世から見たらどう感じるだろう」と思う。政治権力は好き勝手に振る舞い、弱い立場の人が苦しんでいる。戦争の足音が近づいている。権力に抗する表現活動をやめたことを、祖父は後悔していないだろうか。 1949年1月に発行された『第一書』の編集後記で、祖父はこう綴っている。 「前途には希望的な何ものをも見いだし得ないが、この絶望は、人類そのものへの絶望ではない。人為的なからくりに対する憤怒であり、闘魂である。広島、長崎のむごさは、人間に共通する原罪であり、悲哀である。反省である」 「僕らは個の平和を求め得られないことを知っている。僕らの可能は、全人類への信頼と愛情である。戦争がどこで起ころうがそれは僕らを放ってはおかないであろう」 祖母は生前、私に「おじいちゃんに似ている」と言っていた。 だが私は、ペンを手放さない。書き続ける。
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8月6日、原爆の日。 昨晩はエアコンの風が直接当たる位置に寝ていたせいか風が気になってなかなかうまく眠れず。今朝は7時半にアラームをかけていたものの起きるのが少し辛かった。 それでも今日は8月6日。8時15分に1分間の黙祷をするため体を起こした。 最近は毎日のように「今が戦前なのではないか」と思わされるようなニュースが飛び込んでくる。 着々と進められる憲法改正の議論。 戦争を「防衛」と言い換えた武器の輸出や訓練。 その武器が向けられる先には、いつもやわらかな人間の命がある。紛れもなく殺人に向けた準備なのに、「現実的に考えると」という顔をして政治家たちが着々とコマを進めている。つよい恐怖と違和感を覚える。 私は一市民としてできる限り抗いたい。 日常の時間をやりくりして、たとえそれまでの空気をぶった切るようであっても、「最近政治やばいよねえ」と周りの人に切り出してみること。時間が許す限りデモに参加すること、署名をすること。あと、自分で自分を冷笑しないこと。 母方の曾祖父は、パプアニューギニアに派遣され、戦後帰ってきたのは小さな石ころ一つだったという。 生前、祖母は夏に限らず一年中、何度も何度もその話をしてくれた。当時は素直に聴けないこともあったけれどいま振り返るとその物語はしっかりと私の中に受け継がれている。「語り継ぐ」は成功し私に残っている。 今日は家でしばらく作業をこなしたあと、8月9日に控えた「岸本さとこ2期目スタート集会」に向けた準備。 ワークショップのグループ分け用紙を作るという地味な作業だけれど無事に150人分の紙が完成!当日の搬出荷物に詰め込んだ。 その後はモンドジェラートさんへ。 「#かぼちゃと語ろう能登のこと」という企画のかぼちゃのジェラートをいただいた。ダブルにしてもう一方はレモンマスカルポーネ。ジェラートになってもほくほく感残るかぼちゃ味を味わいながら、能登半島地震に改めて思いを馳せる。# 地震の直後、富山にあるパートナーの実家へ地震の片付け手伝いに行ったことなどを思い出す。あれから、日常を営みながら、連綿と能登に思いを寄せ、足を運び、支援を続けられている人たちに本当に頭が上がらない。 夕方、首相のスピーチを読むのが怖くて、先に広島市長の平和宣言全文を読んだ。 政治は究極、戦争をしないためにあると思っている。そうでしょう。 戦争をするために政治を利用する人たちが多すぎて、めまいがする昨今。 戦争をなんとか回避し続けるこの先100年の未来のために。後から「あのとき諦めずにやっておいてよかった」と思えること、今できるすべてをやろうと思う。 目をそらさず、為政者の言動を見届けていようと思う。
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📮 綾戸さんが今、手紙で想いを伝えたい方は、息子さんの同級生・尾藤智美さん🏃 七大陸マラソンに挑戦するため、あと150万円が必要だと知った綾戸さん。 実はその頃、老後の世界旅行のためにちょうど150万円を貯めていたんです。 「一瞬で感じた老後の楽しみと尾藤の夢。天秤にかけると、私の世界旅行はただ行ってよかったしかなくって。尾藤の七大陸制覇はどんなワクワクすることが待ってんねやろ」 「残り全部行っとこか」と手渡した。 その後、尾藤さんは完走。そして綾戸さん自身も、なぜか再活動が始まって、アルバム「UMAMI」まで出してしまった。 「あんたに会った時、なんで走るの?と聞くと、ワクワクして楽しいんですと答えたよね。今の私はそれなんだ」 「コンサート頑張るよ。なんでかって?ワクワクするから」 詳しくはラジコでお聞きください🎧 👉 ラジコで聴く #サンポス# #小山薫堂# #宇賀なつみ# #TOKYOFM# #綾戸智恵# #手紙#
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ギャラリーTen→Senでのコンサートです。 千葉県、松戸駅から歩いてしばらくいくと出現する中華料理店「天廣堂」 の上階に位置するアートギャラリーにて。 ◇公演詳細 : 私がまだ留学中、一時帰国のために乗った飛行機内でお隣になった男性がいました。 私が楽譜を読んでいたのを見て「ミュージシャンですか?」とほろ酔いで話しかけてくださったのが最初の出会い。廣田圭司さんとそのさらにお隣にいらした廣田美耶子さん。 話すうちにお互い同じ千葉県民であることや食べるものが好き (私はとにかく沢山食べるという意味で) ということで、「今度息子が料理してる中華店においで」ということで、その頃にはもうベロベロの廣田さんが紙に連絡先を書いてくれました。 自炊が下手でウィーン楽友協会の立ち見席で貧血で倒れまくっていたような状態の私は、「中華だよ、おいで」が忘れられず日本での演奏後に連絡をして訪ねて行きました。 その時の語らい、匂い、味、そして時間はお二人が亡くなった今も忘れることはありません。 その後料理人の息子さんは独立をして天廣堂開店。今や名店となり、今度は娘さんが代表をされる上階のギャラリーTen→Senで演奏させていただく機会も数えきれないほどとなりました。 今回は廣田圭司(1941-2024)、廣田美耶子(1941-2021)の尊敬するお二人の作品に囲まれての演奏です。 どの作品にも魂が宿り、物語があります。 プログラムはグラナドスの『詩的ワルツ集』(抜粋)を含む、新しい曲も予定しています。 皆様の、ご来場お待ちしております。
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【元バラエティ番組ADから、紙の写真集、FRIDAY袋とじデビューまで】 某地上波ゴールデンタイムのバラエティ番組でADをしていた頃の私は、お世辞にも“可愛い”とは言えない、まさに典型的な3KのADでした。 ――「キタナイ、クサイ、キツイ」。 今となっては笑い話ですが、当時の写真を見ると、自分でも驚くほど今とは別人です。もちろん写真は残っていますが、あまりに違いすぎて積極的には公開できません。 32時間勤務なんて当たり前。オシャレを楽しむ余裕なんて一切なく、毎日のメイクはカラコンと真っ赤なリップだけが唯一のこだわりでした。 テレビ局の中にはコンビニがあり、深夜になるとディレクターに 「コンビニでタバコとモンスター買ってきてー。お釣りで好きなの買っていいから」 と言われることもよくありました。 私はその“お釣り”でタバコを買って、誰にも見つからない場所で吸っていました。 今はもう全く吸いません。 でも当時の私にとって、張り詰めた毎日のストレスの逃げ場は、タバコくらいしかなかったのだと思います。 #あまぱい#
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