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検索結果 ままならぬままごと』
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三十年も賃金という主菜が増えていないのに、社会保険料という会計だけは年々重くなっている。それでも役所は「将来の安心のためです」と説明する。だが、今日の夕飯を減らして将来に備え続ければ、将来が来る前に暮らしが痩せてしまう。問題は負担率だけではない。所得という分母が育たなかったことだ。給料が二倍になれば一万円の負担増にも耐えられるが、給料が据え置かれたまま物価と保険料だけが上がれば、千円の増加さえ重い。 ゆえに社会保障改革と賃上げ、経済成長は別々に語れない。負担の分け方を変えるだけでは、空になった鍋の中身は増えないのである。 全世代型社会保障という考え方にも、一理ある。 人間は年齢だけで豊かさを判断したがるが、裕福な高齢者もいれば、奨学金と家賃に追われる若者もいる。年齢で一律に区切るより、所得や資産を含めた負担能力で考えるほうが公平だろう。 しかし、現役世代の社会保険料を下げ、その穴を消費税で埋めれば全て解決するわけではない。 同じ一割でも、月収二十万円の人と二百万円の人では痛みが違う。富裕層が我慢するのは高級料理かもしれないが、低所得者が削るのは食事や暖房、子どもの靴である。 消費税を主軸に据えるなら、低所得層への給付や税額控除、生活必需品への配慮と一体でなければならない。 金融所得や大きな資産にも、無理のない範囲で応分の負担を求める必要がある。 全世代で支えるという美しい言葉を、全員から今より多く取るという意味にすり替えてはならぬ。 公平とは全員の皿から同じ量を取ることではない。 大皿を抱える者には少し多くお願いし、パン一切れしかない者には、その一切れを残すことだ。 社会保障とは、負担を均等にする仕組みではない。 不安を小さくし、人が再び立ち上がれるようにする仕組みである。 空の皿から、さらに取ってはいけない。 まずは働く者の皿に、賃金という料理を戻すことから始めるべきなのだ。
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人間の子どもは、いつから水に入ることさえ、家の財布に左右されるようになったのであろうか。昔、学校のプールは夏の風物詩。消毒液の匂い、濡れた髪、足裏を焼くコンクリート、笛の音。上手い子も下手な子も同じ水に入り、同じようにむせ、同じように笑い、少しずつ水を怖がらなくなった。ところが今はどうだ?猛暑で中止。施設は老朽化。先生は多忙。安全管理は重い。外部プールを借りても、授業は数回。水遊びにはなるが、泳ぎを身体に刻むには足りぬ。すると親は思う。「このままでは泳げない」と。そして月謝を払い、スイミングスクールへ子を連れて行く。 もちろん、習い事が悪いのではない。泳げる喜びを知ることは尊い。水に顔をつけられなかった子が、一か月で水を好きになる。その変化は、親にとって涙が出るほど嬉しいものだ。 だが問題は、そこである。 泳ぐ力が、家庭の余裕で買うものになってしまえば、それはもう単なる習い事ではない。 命を守る力の格差である。 ピアノが弾けるか、英語が話せるかとは違う。 水の中で浮けるかどうかは、ときに生死の境に立つ技術である。 学校とは、本来、家の事情で失われるものを、社会が最低限支える場所であったはずだ。 裕福な家の子だけが泳げる。時間のある家の子だけが水に慣れる。待機の少ない教室へ通えた子だけが自信を持つ。その光景を、仕方ないで済ませてよいのか。 民間の力を借りるのはよい。だが丸投げではいかぬ。学校体育は、泳法を教えるだけの場所ではない。怖さを知り、助けを待ち、浮き、考え、自分の身を守る力を育てる場である。 先生と専門指導者が手を取り合い、教育としての水泳を守らねばならぬ。 水泳授業の減少は、単なる夏の風物詩の消失ではない。 それは、社会が子どもに渡してきた「いざという時の浮き輪」を、静かに手放しつつあるということである。 子どもは家庭だけで育つのではない。水の中で沈まぬ術くらい、この国全体で教えてやりたいものである。
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ほんのりキュアウェーブヘアー🩵💚 (アプリのバキバキ加工が取れなくてそのままでごめんなさい🙏🏻) 興奮冷めやらぬ!ですね🌺 おばあちゃんになってもWOW!とアロ〜ハを歌えるように準備っと… せっかくなら、今回歌えなかった曲とかもいつかの為に準備しておこう☺️ #ハピネスチャージプリキュア#
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批判を目的とした批判は、何も生み出しません。 もちろん、間違いを指摘すること自体は必要です。行政でも企業でも、組織でも家庭でも、問題を見て見ぬふりをすれば、被害は広がり、同じことが繰り返されます。 だから批判そのものを悪いものだと言いたいわけではありません。 ただ、「誰かを叩くこと」が目的になった瞬間、その言葉は問題を解決する力を失います。 失言を切り取り、過去の失敗を何度も掘り返し、相手が謝っても「まだ足りない」と責め続ける。そこにあるのが改善への願いではなく、怒りのはけ口や優越感だけなら、最後に残るのは対立と疲弊です。 批判には、本来、次の一歩をつくる役割があります。 何が問題だったのか。 誰にどんな影響があったのか。 どう直せば同じ失敗を減らせるのか。 責任を持つ人は、何を説明すべきなのか。 ここまで考えて初めて、批判は社会を少しでも良くする言葉になります。 反対に、「あの人は嫌いだ」「失敗したから終わりだ」という言葉だけでは、何も前に進みません。相手を黙らせることには成功しても、制度も現場も暮らしも改善されないままです。 私たちは、怒るべきときには怒っていい。疑問を持ったときには、きちんと問いかけていい。権力や影響力のある立場の人には、なおさら説明責任を求めるべきです。 でも、その先に「では、どうすればよくなるのか」という視点を置きたいと思います。 批判は、相手を傷つけるための武器ではありません。問題を見える形にし、改善を促し、次の被害を防ぐための道具です。 言葉が強くなるほど、目的を見失いやすくなります。だからこそ、自分の言葉が何を生むのかを、一度だけでも考えたい。 誰かを倒したあとに何も残らない批判より、少しでも社会を前に進める批判を選びたいと思います。
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試写で『#温泉シャーク2# 九州大決戦』拝見したので簡潔に感想を。 サメ映画史を追う者として、まずは歴史的な背景について触れさせてください。サメ映画50年の歴史の中で、様々なサメ映画が生まれ、先人たちは道なき道を切り拓いてきました。「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」、そう魯迅は『故郷』で語りましたが、これはサメ映画の歴史そのものと言えます。 『ジョーズ』の軛からサメを解放したのは、『シャークネード』であるのは周知の通りです。恐怖の象徴だったサメは、竜巻に乗って空を飛び、人々に笑いをもたらすエンターテイナーに姿を変えました。その頃からサメ映画におけるサメはシリアスなキラーと不条理なコメディアンという、『ダブルヘッド・ジョーズ』さながらに2つの顔を持つようになります。 『シャークネード』が切り拓いた道には、サメであることをやめた後進が次々に現れました。しかし、これは一つの陥穽でもあったのです。ハイコンセプトな方向に舵を切ったサメ映画たちの前には、常に『シャークネード』が立ちはだかりました。極限まで予算を削りゲリラ戦に身を投じたZ級サメ映画たちは隆盛しましたが、一般的な視聴に耐えうる予算をかけながら、『シャークネード』ほどに正気を失えたサメ映画は、結局その続編しかありませんでした。ニーチェが「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」と述べたように、解放者はいつのまにか大きな壁になっていたのです。 『シャークネード』の本質は、 “ありえなさの追究” にあります。ネード世界ではたまたま海を泳いでいた大量のサメが巨大ハリケーンに巻き上げられ人々の上に降り注ぎます。やがてサメを伴った台風は勢力を増し、宇宙に進出したり世界を滅ぼしたり時空を超えるようになっていきます。目の前で起こる信じられない事態が、視聴者を置き去りにして全力で明後日の方向に駆け抜けていくことの快感。それこそが数多くのシャークネーダーを産んだ原動力でした。そしてその快感の高みこそが、後続にとっての壁になっていたのです。 こんな分厚い壁に極東から立ち向かったのが、米国生まれのサメ映画という概念を見事にローカライズした『温泉シャーク』です。日本に深く根付いた温泉文化をベースに、特撮でサメ映画を撮るという試みは、サメ映画界隈のみならず多くの賛同者を生み出しました。ありえない嘘を真剣につき、時たま嘘をつくことを諦める姿勢には、確かにサメ映画スピリットが宿っています。 前作の時点で『温泉シャーク』はサメ映画界の絶対王者の玉座に手を伸ばすことが出来ていたと思います。しかしこの『温泉シャーク2』は、その王位を奪い取ってしまいました。本作は九州全土を舞台にし、筋肉、特撮、サメ、キャスト、音楽、あらゆる点でスケールアップしていますが、特筆すべきは正気を疑う脚本です。ひとたび本編が始まれば、観客に思考は許されません。「なんて?」「なんで?」「そうなの!?」「そっかぁ!」という知能剥奪サイクルが数十セットも繰り返されることで、観客は温泉シャークの世界にのめり込むように調教されていきます。そしていつの間にか、訳の分からない展開を手に汗握りながら見守ることしか出来なくなっていくのです。常識という名の森には上映開始数分で火が放たれ、中盤には焼け野原となり、それでも何かが燃え続け、最後には素晴らしいテーマ曲とともに「いやなんか凄いものを観た気がするけどこれは何?」という大きな疑問と感動が残ります。 これからご覧になる方は、ぜひどのシーンでもいいので人に説明してみてください。あり得なさすぎて誰も信じないと思います。そんな信じがたいことが88分間、連続で起こり続けます。もちろん前作を観てからの鑑賞をお勧めしますが、そういう感じの作品なのでスタート地点は結局同じです。「まずは予習してから」などと宣う非温泉シャーク者をバシバシ劇場に連れ込み、思うがままに蹂躙される九州に頭を抱えさせてください。 サメ映画の魅力は、「思いついたことを映画にしてみる」というクリエイティビティの爆発にありますが、狂人でなければ思いつかないことを映画にされては、もはや我々に打つ手はありません。その意味で、『温泉シャーク2』はサメ映画の王を名乗っても決して不遜ではないでしょう。 『BAD CGI SHARKS 電脳鮫』という作品では、「サメ映画の歴史は『ジョーズ2』から始まった」と語られていますが、『温泉シャーク2』は新たなサメ映画の歴史を開闢したのです。ですが果たして、温泉シャーク製作陣はいまや自分たちが新たな怪物と化したことに気づいているのでしょうか。サメ映画の道は常に獣道です。付き合わされる観客も、たまったもんじゃないですよね。
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今の星の与太話。 現実的な拠り所を、「目に見えて派手で、利益を生みそうな一部の大きな存在」に頼りすぎると、いずれ立ち行かなくなる。 今まさに形成されつつあるクリスタルのアスペクトを見ていて、私はそんな印象を受けています。 ここでいう現実的な拠り所とは、利益を生み出すこと。 収益、集客、人気、認知度――。 昨年一度水瓶座へ移動した冥王星は、現在逆行中です。 冥王星は今、「コミュニティの内側だけではなく、その外側の世界にも等しく目を向けよう」と問いかけているように感じます。 お客様の視点。 顧客にとっての満足度。 何が良くて何が不要なのか。 内輪の成果の為だけに動くのではなく、 盛り上がりだけで終わらせるのではなく、 「誰にとっての喜びなのか。」 「その価値は、どのような形で届くのか。」 そこが満たされて初めて、社会にとっての価値として認識され、結果として利益へとつながっていく。 そんな徹底した客観性が、今は求められているように思います。 着目しているのは、牡牛座に入ったばかりのキロンです。 牡牛座はまだ一般社会からの価値付けがされていない、真っさらな人間の土台、肉体、素質、系譜を表します。 クリスタルの頂点で輝くキロンは、「傷」と「癒し」を通して、集団の内側と外側の意識の隔たりをつなごうとしているように見えます。 だからこそ、こんな問いが浮かびます。 「そのスキルや資質、資産、人材への投資は、本当に外の人々の利益につながっていますか?」 「気づかないふりをしていることはありませんか?」 「目指している成長は、本当に求められている価値と一致していますか?」 これを個人に置き換えるなら、 「あなたの能力は、本当に花開く場所で発揮できていますか?」 「その才能の使い方を、間違えてはいませんか?」 ということなのかもしれません。 古い時代が築いてきた概念や肩書き、大衆意識。そこから世界は少しずつ抜け出そうとしています。 これから求められるのは、「本物」であること。 本物とは? 既存の世界で名前が大きいこと? 知名度?影響力? いいえ。この先で求められる本物とは、そのままでありつつも、他人の為に成れる人です。 自身の軸は変わらない。でも外の世界と結びつく為に活かし方を自由に変えられる。そんな柔軟さを持った人。 揺るがぬ資質を鍛え抜いた人。 苦しさ、辛さ、大変さに逃げない人。 自身の喜びも捨てない人。 そして、真実へ近づこうと誠実に努力し続ける姿勢。 そんな本物の自分として生き生きとする人に、大衆意識は惹かれてゆくのでしょう。 もしそこから目を背け続ければ、人の心は静かに離れていく。 そんな危機感を突きつけてくるのが、この週末の火星と天王星の合のエネルギーなのだと、感じています。 双子座は2頭星座。二つの頭、思考、意思、感情を柔軟に交わし合いながら、新たな知の地平を目指します。その変革は軽やかに、一所に留まらず。 現状維持で満足できる配置では無いですね。 特に、私たちエンターテインメントや芸能の世界に身を置く者にとっては、なおさら考えさせられる配置になりそうです。
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「スパイ防止法に反対する奴は売国奴だ!」 最近よく聞く言葉だ。 だが私は逆に聞きたい。 ではなぜ、反日カルトの統一教会についてはそこまで無頓着だったのか。 なぜあれほど深刻な問題を前にして、多くの人が見て見ぬふりをしてきたのか。 統一教会問題は単なる宗教問題ではない。 高額献金問題でもない。 霊感商法問題だけでもない。 本質はもっと根深い。 日本という国家をどう見ていたのか。 日本人をどう扱うべき存在と考えていたのか。 そこにある。 統一教会の教義や関連文献、過去の発言として報じられてきた内容を見ると、日本と韓国は対等な関係ではない。 韓国は「アダム国家」。 日本は「エバ国家」。 韓国が中心であり、日本は奉仕する側。 そうした世界観が存在していたと指摘されている。 さらに文鮮明氏の発言録として紹介された内容には、 日本人は韓国に贖罪しなければならない、 日本の財産は韓国のために使うべきだ、 日本は韓国を支える役割を果たさなければならない、 と受け取られても仕方のない内容が数多く存在する。 だから日本だけが異常な規模の献金対象になった。 だから日本だけが被害の中心になった。 偶然ではない。 思想と行動が一致しているのである。 しかも問題はそこでは終わらない。 文鮮明氏の発言の中には 国会議員との関係強化、 議員秘書の育成、 国会内での組織形成、 超党派での影響力拡大、 といった内容まで登場する。 もちろん個々の発言については検証が必要だ。 しかし少なくとも教団側が政治への影響力獲得を重視していたことは否定できない。 なぜ宗教団体が政治家との関係強化を目指すのか。 なぜ議員秘書を送り込もうとするのか。 なぜ国会内に組織を作ろうとするのか。 答えは簡単だ。 政治を動かしたいからだ。 ここで少し考えてみてほしい。 もし中国系団体が 「日本人は我々に奉仕するべきだ」 「日本人の財産は我々のものだ」 「国会議員との関係を強化しよう」 「議員秘書を送り込もう」 「国会内に組織を作ろう」 と言っていたらどうなるだろうか。 間違いなく大騒ぎになる。 保守派は激怒するだろう。 テレビは連日特集を組むだろう。 SNSでは売国奴という言葉が飛び交うだろう。 ところが統一教会になると急に基準が変わる。 「昔の話だ」 「もう解決した」 「野党も関係していた」 「票が欲しかっただけだ」 そんな言い訳が始まる。 おかしくないか。 本当に安全保障を重視する人間なら、 相手が中国だろうが、 ロシアだろうが、 北朝鮮だろうが、 統一教会だろうが、 同じ基準で見るはずだ。 自分の支持する政治家が関係しているから目をつぶる。 自分の支持する政党だから問題を矮小化する。 そんなものは保守でも何でもない。 ただの身内びいきである。 そして私が最も恐ろしいと思うのは、 統一教会そのものよりも、 こうした問題を知りながら、 あるいは見ようともせず、 「まあいいじゃないか」 で済ませてしまう人たちの存在だ。 国家は外敵だけで滅びるわけではない。 国民が危機感を失ったときに滅びる。 外国勢力の影響を警戒しろと言いながら、 自分の陣営に入り込んだ影響工作には拍手を送る。 それは安全保障ではない。 ただの宗教である。 しかも政治宗教だ。 スパイ防止法が本当に必要だと思うなら議論すればいい。 だがその前にやるべきことがある。 まず、 「自分たちは過去に何を見逃してきたのか」 を直視することだ。 日本を利用対象として見ていたと批判される団体。 日本人から巨額の資金を集めた団体。 政治への影響力拡大を目指していた団体。 そんな組織との関係を曖昧なまま放置しておきながら、 「スパイを取り締まれ!」 と叫んでも説得力はない。 なぜなら、 スパイ防止法が必要だと本気で考える人間なら、真っ先に警戒すべきだった相手を見逃していたことになるからだ。 そしてそれを反省せず、 検証もせず、 責任追及もせず、 「もう終わった話だ」と片付けるなら、 その人たちは安全保障を語っているのではない。 自分の陣営の不都合な事実から目を逸らしているだけである。 国家を滅ぼすのは敵国だけではない。 敵を敵と認識できなくなった国民の思考停止こそが、国家を内側から腐らせる最大の脅威なのである。
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