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黒塚多聞
@rot49
くろづかたもん/短歌/読書/写真/ASD/白雨舎(@hakuusya)/文藝同人誌「夜の航海」主宰(@yorunokoukai)/短歌ユニット黒翅夢想(@kokusimusou0201)/ご依頼等:DM
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数年前、私が抑鬱的だった時になんとなくNetflixで観たら、おもしろすぎて、ホラー映画にハマるきっかけとなった映画『富江』が無料公開されてるのでオススメです
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本日8月8日は世阿弥忌です。 世阿弥の子孫である能楽師・観世三郎太先生よりコメントをいただきました。 #ワールドイズダンシング#
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起きたか飼い主、まるぴ もうちょっと寝る。飼い主 起こしにいったのに ぜーんぜん起きてくれないんだもーん。
朝日新聞「文庫この新刊!」今回は、 大岡信『日本詩歌の特質』ちくま学芸文庫 『ドストエフスキー全短編』⑴⑵ 大江健三郎『文学ノート 付=15篇』 について書きました。
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文学フリマ、東京出店は初です。 歌集などを今から作ります(えっ) よろしくお願いします🙇 【文学フリマ東京43に出店します!】 🗓11/8(日) 12:00〜17:00開催! 📍東京ビッグサイト南1-4ホール 📕イベント詳細→
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ギャルゲーにあるまじきBGMと効果音が流れて草
いくつもの風景のなかで、人は出会い笑い悲しみ時に祝福され時には微かな罪と共に生きていく。そしてひとりひとりが雑踏のなかにまぎれてゆく。そこにある自然のただなかにかつての人々の想いがやっかいにからみあっているから、その場所に様々な匂いや色を滲ませてゆくものなのかもしない。#短歌#
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新刊『一冊で読み解く『神学大全』 異質な文化と宗教が交錯した、知的な危機の時代をトマスはどう生き、壮大な思想体系を築いたのか。 「神とは、人間とは、キリストとは何か」という根源的な問いや重要概念を手がかりに『神学大全』を読み解く 詳細こちらです📚
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地震のあと、SNSには流言が走る。以前、動物園から猛獣が逃げたという画像付き投稿が炎上した。結果、投稿主は偽計業務妨害の疑いで逮捕された(見せしめの逮捕だと言われている)。その他にも、人工地震とか、「外国人が治安を悪くしている」みたいな話が災害のたびに蘇るのを見かける。ぼくらはそれを「情報リテラシーの問題」として語りがちだ。しかし、話はもっと深いところにあると本書は教えてくれる。デマは情報の失敗ではなく、物語の成功なのだ、と。 本書はナラトロジー(=物語論)の知見を人生論に接続した一冊である。出発点は「あなたは『物語る動物』です」とシンプルだ。人間は「時間の前後関係」の中で世界を把握し、出来事をストーリーの形式で理解せずにはいられない動物である。これは倫理学者マッキンタイアが人間を「物語る動物」と呼んだ議論とも響き合うし、心理学者ブルーナーが、論理科学的な思考とは別に人間には物語による思考の様式が備わっていると論じたこととも重なる。物語は趣味や娯楽ではない。認知の基本フォーマットである。 そして本書の核心は、ストーリーに「なぜ」の答え、つまり因果関係が組み込まれた瞬間に、人は「わかった」という感覚を抱いてしまうという指摘にある。「わかった」という感覚は、その説明が正しいことを保証しない。出来事Aのあとに出来事Bが起きた。それだけで、ぼくらの頭はAがBの原因だという物語を勝手に組み立てる。しかもその物語が、自分の持っている一般論——世間とはこういうものだ、あの人たちはこういう人たちだといった理解——に合致していれば、快感に近い納得が生まれる。デマが拡散する仕組みは、まさにこれだ。災害という「なぜ?」の塊を前にして、不安に耐えかねた心が、手持ちの偏見と合致する因果の物語に人を飛びつかせる。災害の実態はわからない。わからないからこそ、非常時ならこういうこともあるかも? と思って流言を信じてしまう。 流言研究の古典の中でオルポートらが、流言の流通量は事態の重要さと曖昧さに比例すると定式化したのは1940年代である。物語への渇きという観点から読み直せば、あの公式は「なぜ?」が大きいほど物語の需要が高まるという話でもある。 本書がさらに面白いのは、感情の問題に踏み込むところだ。目次には「感情のホメオスタシス」「僕たちはなぜ〈かっとなって〉しまうのか?」という節題が並ぶ。本書によれば、ぼくらは出来事そのものに反応しているのではなく、出来事を自分の一般論で物語化した解釈に反応して、怒ったり傷ついたりしていると言える。「あの人が挨拶を返さなかった」という出来事と、「あの人はぼくを軽んじている」という物語のあいだには、ほんとうは飛躍がある。その飛躍を、ぼくらは飛躍と気づかずに飛んでしまう。かっとなるとき、ぼくらは現実にではなく、自作の物語に激怒している。そして、たまたま本当に挨拶が聞こえなかっただけの相手に対して、「俺を軽んじるな!」と怒りをぶちまけてしまうのである。 ただし、物語をやめて、事実だけで生きればいいのかと言えば、そこはむずかしい。哲学の世界には、人生を物語として捉える見方自体を批判する議論もある。分析哲学者ガレン・ストローソンは、人生を一貫した物語として生きるべきだという規範に異を唱え、自己を物語化しない生き方の正当性を論じた。ぼくはこの論争に一理あると思っている。物語は人間の本性だという理解と、物語に回収されない生の擁護。この緊張の中から実践の知恵がでてくる。 著者は、物語の廃棄ではなく、編集権の奪還を訴えている。具体的には「不適切な信念 = 一般論から解放される」ことが大切だという。出来事は選べない。でも、出来事をどう物語化するかの態度は変えることができる。自分がいまどんな一般論を前提に、どんな因果を勝手に補ったのかを点検する。納得しかけたときこそ疑う。それは自分の人生の語り方についても同じで、「こういう人生であるべきだった」という自作のライフストーリーに苦しめられているなら、その脚本は書き直してもいいのである。 あなたの人生の物語化を、一般論や常識に主導されたままで良いのか? 著者はそう問いかける。 物語は人生につける薬である。本書の紹介文にあるこの惹句は、裏返せば、薬には用法用量があるということだ。災害のあとに出回る雑な物語に飲み込まれないための第一歩になるのは、フェイクを見抜く技術の前に、自分が物語なしではいられない動物だと認めることである。「デマを信じる愚かな誰か」と「物語を求める私」は別の生き物ではない。同じ渇きを抱えた同じ動物だと、まず知ることである。 書籍名:人はなぜ物語を求めるのか 著者名:千野帽子 出版社:筑摩書房(ちくまプリマー新書)
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移民問題等で最もむずかしいと思うのが、統計を無力化しようとする力である。政策の合理的な検証には、たとえば「外国人による犯罪は統計的に見て実際に増えているのか」という問いが外せない。ところが、米国の政治学では、移民の規模について正確な統計を示すと人々の認識は修正されるのに、移民への態度はほぼ変わらないという実験結果が積み重なっている。数字は受け入れられても、外国人への不安は減らないのである。 なぜかといえば、実際に隣人とのトラブルを経験した人にとって、その出来事は本人の中では100%起きた事実で、そんな人に「統計的には稀です」と応答すれば、それが統計的に正しくても、体験そのものには何も応答できないからだ。むしろその人は、自分の被害を数字によって薄められたと感じる。体験の個別性と数字の全体性が交わらないまま並走してしまう。 チャールズ・テイラーの本書の言々句々は、このすれ違いを解きほぐす道具になる。 もちろん、テイラーがこの話題をメインで扱っている訳ではない。しかし、テイラーがヘーゲルから受け継いだ「全体性と個別性の和解」という課題が、まさにこの問題に関連しているといえる。なぜなら、当事者が持つ「個別の体験」という「個別性」と、全体最適を社会実装していく「全体性」がなかなか和解できないことが、移民問題だけでなく色々なところで生じているからだ。テイラーはそんなアポリアに取り組んだ。 本書によれば、この課題のベースになるのは、全体性に無条件に回収されることのない自律の観念を存在論的に基礎づけなければならない、というテーゼである。全体性と個別性の和解については、ヘーゲルが理性によって、または絶対的自由を目指すことによって成し遂げられると語っていた。それを受けてテイラーは、まず「自由」は目指すべき理想ではなく状況の中に組み込むべきものだと考えた。 たとえば、現代社会には「名誉」を基礎とした社会秩序や階層秩序がある。それは優越性を求める人間の欲望に基づいている。近代以降成長した「平等」や「自由」の観念は、タテマエとしては民主主義の基盤として据えられているものの、そもそもこういった階層秩序は必然的に不平等を生み出すので、それらと「秩序機構」はぶつかり合うことになる。とはいえ、「じゃあ自由を実現するために社会的地位をすべてなくしましょう」という訳にいかないのはお分かりの通りだ。 そこで落としどころとして注目すべきなのが「平等な尊厳の承認」だとテイラーは考えた。みなが平等に自身の尊厳を認められる状況を作るのだ、と。 これが、自由を状況の中に組み込めという話である。 ちなみにテイラーは多文化主義をめぐるケベックの承認の政治に深く関わった哲学者でもある。この議論は最初から異質な者同士がどう共存するかという問いと地続きだった。 さて、その上で全体性と個別性の和解には大きな問題があることも本書で提示される。それは、これまで排他的人間主義が胚胎してきた「差異をうまく扱うことができない」点に内在している。冒頭の例でいうなら、不安や被害を抱えた「個別的な視点」と、それを社会的により良い制度へと進化させるのに必要な「全体的な視点」を両立させることの困難さはその一例になる。「隣人としての不安が自分の中ではどうしても大きくて」という人にとっては、統計を踏まえた合理的な議論がどうしても「冷たい」「実感を軽んじる」「嫌な」ものとして感じられてしまう。一方で、「実際のところ何%ですか」という問いを外さずに議論しようとする人にとっては、実感を語るだけの人の態度が「公正さを欠いたもの」として映る。 実はこの「両者が負の感情を抱き合う」状況は、あけすけなく言えば、お互いが自己中心的であり、差異をうまく扱えないことに由来する。自分の実感を守ろうとするあまり、公的な、合理的な議論を忌避するのも、そういった人を見下すのも、要はお互いが自己中だからそうなる、という話だ。 テイラーはその状況を打破するために「徹底的な自己の脱中心化」を求める。そして、その鍵が「無条件な愛=アガペー」にあるという論理を展開する。 「アガペー」という話が出るといかにも抽象論っぽいが、テイラーの議論はとても緻密だ。彼はガダマーの哲学を参照しつつ、ガダマーが唱えた「地平融合」にアガペーが重要であることを指摘する。「地平融合」とは、ざっくり言えば「私はこういう風に世界を解釈してきた」と「いや、私はむしろこういう風に世界を解釈してきた」という二者の解釈を和解させて、より高次の解釈を生み出す営みを指す。地平融合の際にアガペーが、また「超越性」が大切な役割を担うことにテイラーは注目した。 アガペーといっても遠い話ではない。言い争っていたライバルが共通の目的の出現によって「とりあえずの団結」をすることがあるが、その際に互いに芽生える感情も、また、街中で幼い子どもが一人で泣いていた時に「放っておけない」と思う人々が手を取り合う状況も、アガペーの入り口である。アガペーには、まさに敵対関係だった人同士を団結させる力がある。そしてそれが、果ては全体性と個別性をも和解させるというのがテイラーの見立てである。 加えて、彼は「アガペーのネットワーク」を作ることを提案する。 本来は、宗教がそれを担ってきた(ただ、それを担う宗教と別の宗教が対立するという悲しい構造が存在する)。テイラーの別の著作『世俗の時代』でも指摘されているように、道徳的根拠は多くの場面で、いまや「神」ではなくなってしまった。グロチウスやロックらの自然法論が市場経済や公共圏、人民主権などの想像力を支えるようになり、道徳性の主たる源泉は道具的理性、普遍的意志、普遍的共感へとシフトした。そして、普遍的「博愛」なるものが唱えだされた。 それによって生じたのが、世界を意味あるもの=「コスモス」として受け止める態度よりも、ポスト・ガリレオ的な「宇宙」として受け止める態度が主流になっていくという流れだった。世界は機械的な因果関係に支配されているという発想は、科学性だけでなく道徳性の足場にもなった。そして宗教はそんな流れに、また世俗に組み込まれていってしまった(他方で宗教の側も、みずから同化しようと試みてきた。教義を科学で証明してもらおうとするように)。 おそらくこの流れを止めるのはむずかしい。ただ、流れが必然だとしても「より良く」流すという観点は大切で、一例をあげれば、テイラーは世俗主義者の限界を指摘することで新たな道を開こうと試みている。 残念ながら、多くのリベラルな世俗主義者は、宗教的多様性や形而上学的多様性を擁護するように見えて、実際は世俗的秩序を優先し、それらを世俗に適応させようと強いている。この構造は、いま外国人をめぐって起きていることと同型だ。「共生」を語る言葉の多くが、よく見ると「日本社会のやり方に合わせられる外国人」だけを歓迎している。受け入れに賛成する側でさえ、「労働力として必要だ」という言葉で語ることが多い。端的にいえば、それは「マイノリティはマジョリティ側に合わせろよ」という話で、その際に「マイノリティに対して『変わってるね』と思って忌避感を抱くマジョリティ側の倫理的問題」はあまり問われない。 この件で連想することがある。旧統一教会問題が過熱した時、教団叩きやその異常性をあげつらう言説が出るだけでなく、「宗教の信者たち」という「ちょっと変わった人たち」のその「変わった感じ」に対して「もっと一般社会に合わせたら?」と提案することがスマートであるかのような空気が広まった。これはシンプルに「マジョリティの側に合わせろよ」と同化を求める流れであり、平時に人権問題や差別問題を議論していけば、時には「ヤバイよね」となる空気なのだが、世の中が旧統一教会問題に一気に傾くと、そういう議論ができなくなるし、知識人たちも自分が同じことをしていることに気づかず、平気で信者の人権を蹂躙するようになった。 恐ろしかったのは、あの時、宗教的なロジックを公平に語ろうとすると、世間から「お前も統一教会の回し者か」と言われ、また、宗教2世被害者からも「正木は洗脳が解けてない」「ニセモノの2世被害者だ」「宗教貴族の家の生まれだから、本当の2世の気持ちはわからない」等と揶揄されまくったことだ。旧統一教会問題の雪崩の中で「宗教信者にも人権はあるんです」と話しても、マジで通用しない場面が多々あった。「ヤバさ」を指摘しても、雪崩の中にいる人たちから「お前の方がヤバイ」と返された。 ぼくは「ああ、戦前の日本ってこういう感じか」と、あのとき思った。 実は、テイラーの世俗論はこういった議論に資する内容になっている。 本書にはウィリアム・コノリーの引用がでてくる。コノリーは、先ほどのようにして世間が宗教に対して負の雪崩を起こす際の動力源になっているのは「信仰ってのは基本的にドグマ的だよね」という認識だと指摘している。だが、雪崩の話を読んで分かるように、雪崩時にあっては世間の側も相当にドグマ的だ。しかも、世間は自分たちのドグマ性に気づかず、宗教のドグマ性を嗤うのである。「信仰」を「外国人」に置き換えても、この構造はそのまま成立する。 こういった構造を受け、コノリーは「アゴーン的敬意」の重要性を示した。「アゴーン的敬意」とは、政治の場において「お互いの差異をちゃんと認識して、ドグマ的にならずに公的な合意図式に議論を当てはめようよ。だけど、人間にはそれって不可能なんだよね」という、人間に対する節度ある理解とちょうどいい不信に基づいた敬意のことだ。 コノリーはこの敬意をもとに、「私たち、お互いドグマ的ですから」と本気で思い合って(内心で「テメーがドグマ的だから議論が収拾つかないんだよ!」と揶揄して終わるのではなく、みたいな)、むしろドグマとドグマによる合意形成は必然であり、「だからこそ丁寧に、慎重にやっていきましょうよ」となれば政治もより良くなると考えた。 そして本書を読んで理解できるのが、その敬意の源泉になるものもまたアガペーだという点である。 もちろん、これは「アガペーを発動させるために、共通の敵を作りましょう、共通の憐れみの対象を作りましょう」といった陳腐な結論に着地する話ではない。 ぶっちゃけ、共通の目的による団結は、敵対構造を解消していない。境界線を引き直しているだけだ。昨日までのライバルと手を結べるのは、新しい「外」ができたからであって、ぼくらが変わったからではない。この論理の延長で社会をまとめようとすれば、行き着く先は「共通の敵」の再生産である。そして外国人をめぐる言説の一部は、まさにこの文法で人々を動員している。 アガペーが「無条件の」愛と呼ばれるのは、それが共通性を前提にしないからだ。泣いている子どもを放っておけないのは、その子が仲間だからではない。役に立つからでもない。理由の手前で、応答してしまう。テイラーが超越性という一見古めかしい言葉にこだわるのは、この「理由の手前」を基礎づける足場が人間の有用性の内側にはどうしても見つからないからだ。共通敵も共通の憐れみの対象も、それを気づかせてくれる入り口に過ぎない。 ここから外国人問題を見直すと、見える景色が変わる。 「外国人は危険だ」という排斥の言葉と、「外国人は労働力として必要だ」という受け入れの言葉は、対立しているように見えて実は同じ文法で書かれている。どちらも人間を全体性への貢献度、つまり社会の秩序や経済への寄与で数えている。そして有用性の言語では尊厳は基礎づけられない。有用性は「役に立たなくなった瞬間」に承認を取り下げる言語だからだ。無条件の源泉を持たない博愛が、やがて「助けるに値しない者」への軽蔑に転化していく光景をぼくらは何度も見てきた。 だから、冒頭のテーゼに戻ってくる。全体性に無条件に回収されることのない自律を基礎づけること。「統計的に何%ですか」という問いは、当然、外せない。統計なしに政策は作れない。ただ、その問いを発する側に、数字に回収されない人間の位相を保持する足場があるかどうかで同じ問いがまったく別のものになる。足場があれば、それは個別を尊重したままの検証になる。なければ、それは人間を頭数に変換する暴力になる。そこで必要なのは、隣人の外国人に不安を感じているというその人の実感そのものに応答することである。 人間を「何%」的な数字に変換することの雑さへの自覚があれば、その応答は始められると思う。その時に、統計を受け入れない相手を「非科学的だ」「非合理だ」と揶揄して終えば、個別制度全体性は交わらないままだろう。 『世俗と宗教のあいだ』 著者:高田宏史 発行:風行社@fuko_sha
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『トイストーリー』の『にがい勝利』|イトウモ
ポッドキャスト2020s更新。遠く(未来含む)の誰かのために行動するにはどうすれば良い? シリコンバレーで流行した効果的利他主義について、背景や批判点も含め考えています。 「大事なものには存在し続けてほしい」と願う気質的保守性(シェフラー)の話は多くの方に知って頂きたいので、ぜひ!
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鉄塔をのぼる幽霊いくたびも生まれて死んでいくたびも雲 平田有『対岸へ渡る』私家版 2018 6月3日の短歌鑑賞
第2回カクヨム短歌賞に応募しました。大切に10首詠みました。見ていただけると嬉しいです🫧🪼
#こなみんミュージアム# 無事に一週間の会期を終えました! 約1000名の方にご来場いただき誠にありがとうございました! 出展者の皆様。広角機動隊の皆様。 デザイナーのブンキちゃん。 受付や装飾物を手伝ってくれたmiiちゃんめろDちゃんcocoちゃん。感謝いっぱいです。 皆様、また会う日まで🌈
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