移民問題等で最もむずかしいと思うのが、統計を無力化しようとする力である。政策の合理的な検証には、たとえば「外国人による犯罪は統計的に見て実際に増えているのか」という問いが外せない。ところが、米国の政治学では、移民の規模について正確な統計を示すと人々の認識は修正されるのに、移民への態度はほぼ変わらないという実験結果が積み重なっている。数字は受け入れられても、外国人への不安は減らないのである。
なぜかといえば、実際に隣人とのトラブルを経験した人にとって、その出来事は本人の中では100%起きた事実で、そんな人に「統計的には稀です」と応答すれば、それが統計的に正しくても、体験そのものには何も応答できないからだ。むしろその人は、自分の被害を数字によって薄められたと感じる。体験の個別性と数字の全体性が交わらないまま並走してしまう。
チャールズ・テイラーの本書の言々句々は、このすれ違いを解きほぐす道具になる。
もちろん、テイラーがこの話題をメインで扱っている訳ではない。しかし、テイラーがヘーゲルから受け継いだ「全体性と個別性の和解」という課題が、まさにこの問題に関連しているといえる。なぜなら、当事者が持つ「個別の体験」という「個別性」と、全体最適を社会実装していく「全体性」がなかなか和解できないことが、移民問題だけでなく色々なところで生じているからだ。テイラーはそんなアポリアに取り組んだ。
本書によれば、この課題のベースになるのは、全体性に無条件に回収されることのない自律の観念を存在論的に基礎づけなければならない、というテーゼである。全体性と個別性の和解については、ヘーゲルが理性によって、または絶対的自由を目指すことによって成し遂げられると語っていた。それを受けてテイラーは、まず「自由」は目指すべき理想ではなく状況の中に組み込むべきものだと考えた。
たとえば、現代社会には「名誉」を基礎とした社会秩序や階層秩序がある。それは優越性を求める人間の欲望に基づいている。近代以降成長した「平等」や「自由」の観念は、タテマエとしては民主主義の基盤として据えられているものの、そもそもこういった階層秩序は必然的に不平等を生み出すので、それらと「秩序機構」はぶつかり合うことになる。とはいえ、「じゃあ自由を実現するために社会的地位をすべてなくしましょう」という訳にいかないのはお分かりの通りだ。
そこで落としどころとして注目すべきなのが「平等な尊厳の承認」だとテイラーは考えた。みなが平等に自身の尊厳を認められる状況を作るのだ、と。
これが、自由を状況の中に組み込めという話である。
ちなみにテイラーは多文化主義をめぐるケベックの承認の政治に深く関わった哲学者でもある。この議論は最初から異質な者同士がどう共存するかという問いと地続きだった。
さて、その上で全体性と個別性の和解には大きな問題があることも本書で提示される。それは、これまで排他的人間主義が胚胎してきた「差異をうまく扱うことができない」点に内在している。冒頭の例でいうなら、不安や被害を抱えた「個別的な視点」と、それを社会的により良い制度へと進化させるのに必要な「全体的な視点」を両立させることの困難さはその一例になる。「隣人としての不安が自分の中ではどうしても大きくて」という人にとっては、統計を踏まえた合理的な議論がどうしても「冷たい」「実感を軽んじる」「嫌な」ものとして感じられてしまう。一方で、「実際のところ何%ですか」という問いを外さずに議論しようとする人にとっては、実感を語るだけの人の態度が「公正さを欠いたもの」として映る。
実はこの「両者が負の感情を抱き合う」状況は、あけすけなく言えば、お互いが自己中心的であり、差異をうまく扱えないことに由来する。自分の実感を守ろうとするあまり、公的な、合理的な議論を忌避するのも、そういった人を見下すのも、要はお互いが自己中だからそうなる、という話だ。
テイラーはその状況を打破するために「徹底的な自己の脱中心化」を求める。そして、その鍵が「無条件な愛=アガペー」にあるという論理を展開する。
「アガペー」という話が出るといかにも抽象論っぽいが、テイラーの議論はとても緻密だ。彼はガダマーの哲学を参照しつつ、ガダマーが唱えた「地平融合」にアガペーが重要であることを指摘する。「地平融合」とは、ざっくり言えば「私はこういう風に世界を解釈してきた」と「いや、私はむしろこういう風に世界を解釈してきた」という二者の解釈を和解させて、より高次の解釈を生み出す営みを指す。地平融合の際にアガペーが、また「超越性」が大切な役割を担うことにテイラーは注目した。
アガペーといっても遠い話ではない。言い争っていたライバルが共通の目的の出現によって「とりあえずの団結」をすることがあるが、その際に互いに芽生える感情も、また、街中で幼い子どもが一人で泣いていた時に「放っておけない」と思う人々が手を取り合う状況も、アガペーの入り口である。アガペーには、まさに敵対関係だった人同士を団結させる力がある。そしてそれが、果ては全体性と個別性をも和解させるというのがテイラーの見立てである。
加えて、彼は「アガペーのネットワーク」を作ることを提案する。
本来は、宗教がそれを担ってきた(ただ、それを担う宗教と別の宗教が対立するという悲しい構造が存在する)。テイラーの別の著作『世俗の時代』でも指摘されているように、道徳的根拠は多くの場面で、いまや「神」ではなくなってしまった。グロチウスやロックらの自然法論が市場経済や公共圏、人民主権などの想像力を支えるようになり、道徳性の主たる源泉は道具的理性、普遍的意志、普遍的共感へとシフトした。そして、普遍的「博愛」なるものが唱えだされた。
それによって生じたのが、世界を意味あるもの=「コスモス」として受け止める態度よりも、ポスト・ガリレオ的な「宇宙」として受け止める態度が主流になっていくという流れだった。世界は機械的な因果関係に支配されているという発想は、科学性だけでなく道徳性の足場にもなった。そして宗教はそんな流れに、また世俗に組み込まれていってしまった(他方で宗教の側も、みずから同化しようと試みてきた。教義を科学で証明してもらおうとするように)。
おそらくこの流れを止めるのはむずかしい。ただ、流れが必然だとしても「より良く」流すという観点は大切で、一例をあげれば、テイラーは世俗主義者の限界を指摘することで新たな道を開こうと試みている。
残念ながら、多くのリベラルな世俗主義者は、宗教的多様性や形而上学的多様性を擁護するように見えて、実際は世俗的秩序を優先し、それらを世俗に適応させようと強いている。この構造は、いま外国人をめぐって起きていることと同型だ。「共生」を語る言葉の多くが、よく見ると「日本社会のやり方に合わせられる外国人」だけを歓迎している。受け入れに賛成する側でさえ、「労働力として必要だ」という言葉で語ることが多い。端的にいえば、それは「マイノリティはマジョリティ側に合わせろよ」という話で、その際に「マイノリティに対して『変わってるね』と思って忌避感を抱くマジョリティ側の倫理的問題」はあまり問われない。
この件で連想することがある。旧統一教会問題が過熱した時、教団叩きやその異常性をあげつらう言説が出るだけでなく、「宗教の信者たち」という「ちょっと変わった人たち」のその「変わった感じ」に対して「もっと一般社会に合わせたら?」と提案することがスマートであるかのような空気が広まった。これはシンプルに「マジョリティの側に合わせろよ」と同化を求める流れであり、平時に人権問題や差別問題を議論していけば、時には「ヤバイよね」となる空気なのだが、世の中が旧統一教会問題に一気に傾くと、そういう議論ができなくなるし、知識人たちも自分が同じことをしていることに気づかず、平気で信者の人権を蹂躙するようになった。
恐ろしかったのは、あの時、宗教的なロジックを公平に語ろうとすると、世間から「お前も統一教会の回し者か」と言われ、また、宗教2世被害者からも「正木は洗脳が解けてない」「ニセモノの2世被害者だ」「宗教貴族の家の生まれだから、本当の2世の気持ちはわからない」等と揶揄されまくったことだ。旧統一教会問題の雪崩の中で「宗教信者にも人権はあるんです」と話しても、マジで通用しない場面が多々あった。「ヤバさ」を指摘しても、雪崩の中にいる人たちから「お前の方がヤバイ」と返された。
ぼくは「ああ、戦前の日本ってこういう感じか」と、あのとき思った。
実は、テイラーの世俗論はこういった議論に資する内容になっている。
本書にはウィリアム・コノリーの引用がでてくる。コノリーは、先ほどのようにして世間が宗教に対して負の雪崩を起こす際の動力源になっているのは「信仰ってのは基本的にドグマ的だよね」という認識だと指摘している。だが、雪崩の話を読んで分かるように、雪崩時にあっては世間の側も相当にドグマ的だ。しかも、世間は自分たちのドグマ性に気づかず、宗教のドグマ性を嗤うのである。「信仰」を「外国人」に置き換えても、この構造はそのまま成立する。
こういった構造を受け、コノリーは「アゴーン的敬意」の重要性を示した。「アゴーン的敬意」とは、政治の場において「お互いの差異をちゃんと認識して、ドグマ的にならずに公的な合意図式に議論を当てはめようよ。だけど、人間にはそれって不可能なんだよね」という、人間に対する節度ある理解とちょうどいい不信に基づいた敬意のことだ。
コノリーはこの敬意をもとに、「私たち、お互いドグマ的ですから」と本気で思い合って(内心で「テメーがドグマ的だから議論が収拾つかないんだよ!」と揶揄して終わるのではなく、みたいな)、むしろドグマとドグマによる合意形成は必然であり、「だからこそ丁寧に、慎重にやっていきましょうよ」となれば政治もより良くなると考えた。
そして本書を読んで理解できるのが、その敬意の源泉になるものもまたアガペーだという点である。
もちろん、これは「アガペーを発動させるために、共通の敵を作りましょう、共通の憐れみの対象を作りましょう」といった陳腐な結論に着地する話ではない。
ぶっちゃけ、共通の目的による団結は、敵対構造を解消していない。境界線を引き直しているだけだ。昨日までのライバルと手を結べるのは、新しい「外」ができたからであって、ぼくらが変わったからではない。この論理の延長で社会をまとめようとすれば、行き着く先は「共通の敵」の再生産である。そして外国人をめぐる言説の一部は、まさにこの文法で人々を動員している。
アガペーが「無条件の」愛と呼ばれるのは、それが共通性を前提にしないからだ。泣いている子どもを放っておけないのは、その子が仲間だからではない。役に立つからでもない。理由の手前で、応答してしまう。テイラーが超越性という一見古めかしい言葉にこだわるのは、この「理由の手前」を基礎づける足場が人間の有用性の内側にはどうしても見つからないからだ。共通敵も共通の憐れみの対象も、それを気づかせてくれる入り口に過ぎない。
ここから外国人問題を見直すと、見える景色が変わる。
「外国人は危険だ」という排斥の言葉と、「外国人は労働力として必要だ」という受け入れの言葉は、対立しているように見えて実は同じ文法で書かれている。どちらも人間を全体性への貢献度、つまり社会の秩序や経済への寄与で数えている。そして有用性の言語では尊厳は基礎づけられない。有用性は「役に立たなくなった瞬間」に承認を取り下げる言語だからだ。無条件の源泉を持たない博愛が、やがて「助けるに値しない者」への軽蔑に転化していく光景をぼくらは何度も見てきた。
だから、冒頭のテーゼに戻ってくる。全体性に無条件に回収されることのない自律を基礎づけること。「統計的に何%ですか」という問いは、当然、外せない。統計なしに政策は作れない。ただ、その問いを発する側に、数字に回収されない人間の位相を保持する足場があるかどうかで同じ問いがまったく別のものになる。足場があれば、それは個別を尊重したままの検証になる。なければ、それは人間を頭数に変換する暴力になる。そこで必要なのは、隣人の外国人に不安を感じているというその人の実感そのものに応答することである。
人間を「何%」的な数字に変換することの雑さへの自覚があれば、その応答は始められると思う。その時に、統計を受け入れない相手を「非科学的だ」「非合理だ」と揶揄して終えば、個別制度全体性は交わらないままだろう。
『世俗と宗教のあいだ』
著者:高田宏史
発行:風行社
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