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正木伸城
@nobushiromasaki
イベントプロデューサー・マーケター・経営者|他、約20の事業に取締役や顧問として参画|常に3冊持ち歩く活字好き|仏教思想研究家|哲学愛好家|『監獄の誕生』が座右書|うつ病→精神病棟→36歳から本格的に社会人デビュー →3社を経て現職|著書は共著あわせて3冊既刊|献本書評も受けつけています|取材・仕事の依頼はDMにて📩
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移民問題等で最もむずかしいと思うのが、統計を無力化しようとする力である。政策の合理的な検証には、たとえば「外国人による犯罪は統計的に見て実際に増えているのか」という問いが外せない。ところが、米国の政治学では、移民の規模について正確な統計を示すと人々の認識は修正されるのに、移民への態度はほぼ変わらないという実験結果が積み重なっている。数字は受け入れられても、外国人への不安は減らないのである。 なぜかといえば、実際に隣人とのトラブルを経験した人にとって、その出来事は本人の中では100%起きた事実で、そんな人に「統計的には稀です」と応答すれば、それが統計的に正しくても、体験そのものには何も応答できないからだ。むしろその人は、自分の被害を数字によって薄められたと感じる。体験の個別性と数字の全体性が交わらないまま並走してしまう。 チャールズ・テイラーの本書の言々句々は、このすれ違いを解きほぐす道具になる。 もちろん、テイラーがこの話題をメインで扱っている訳ではない。しかし、テイラーがヘーゲルから受け継いだ「全体性と個別性の和解」という課題が、まさにこの問題に関連しているといえる。なぜなら、当事者が持つ「個別の体験」という「個別性」と、全体最適を社会実装していく「全体性」がなかなか和解できないことが、移民問題だけでなく色々なところで生じているからだ。テイラーはそんなアポリアに取り組んだ。 本書によれば、この課題のベースになるのは、全体性に無条件に回収されることのない自律の観念を存在論的に基礎づけなければならない、というテーゼである。全体性と個別性の和解については、ヘーゲルが理性によって、または絶対的自由を目指すことによって成し遂げられると語っていた。それを受けてテイラーは、まず「自由」は目指すべき理想ではなく状況の中に組み込むべきものだと考えた。 たとえば、現代社会には「名誉」を基礎とした社会秩序や階層秩序がある。それは優越性を求める人間の欲望に基づいている。近代以降成長した「平等」や「自由」の観念は、タテマエとしては民主主義の基盤として据えられているものの、そもそもこういった階層秩序は必然的に不平等を生み出すので、それらと「秩序機構」はぶつかり合うことになる。とはいえ、「じゃあ自由を実現するために社会的地位をすべてなくしましょう」という訳にいかないのはお分かりの通りだ。 そこで落としどころとして注目すべきなのが「平等な尊厳の承認」だとテイラーは考えた。みなが平等に自身の尊厳を認められる状況を作るのだ、と。 これが、自由を状況の中に組み込めという話である。 ちなみにテイラーは多文化主義をめぐるケベックの承認の政治に深く関わった哲学者でもある。この議論は最初から異質な者同士がどう共存するかという問いと地続きだった。 さて、その上で全体性と個別性の和解には大きな問題があることも本書で提示される。それは、これまで排他的人間主義が胚胎してきた「差異をうまく扱うことができない」点に内在している。冒頭の例でいうなら、不安や被害を抱えた「個別的な視点」と、それを社会的により良い制度へと進化させるのに必要な「全体的な視点」を両立させることの困難さはその一例になる。「隣人としての不安が自分の中ではどうしても大きくて」という人にとっては、統計を踏まえた合理的な議論がどうしても「冷たい」「実感を軽んじる」「嫌な」ものとして感じられてしまう。一方で、「実際のところ何%ですか」という問いを外さずに議論しようとする人にとっては、実感を語るだけの人の態度が「公正さを欠いたもの」として映る。 実はこの「両者が負の感情を抱き合う」状況は、あけすけなく言えば、お互いが自己中心的であり、差異をうまく扱えないことに由来する。自分の実感を守ろうとするあまり、公的な、合理的な議論を忌避するのも、そういった人を見下すのも、要はお互いが自己中だからそうなる、という話だ。 テイラーはその状況を打破するために「徹底的な自己の脱中心化」を求める。そして、その鍵が「無条件な愛=アガペー」にあるという論理を展開する。 「アガペー」という話が出るといかにも抽象論っぽいが、テイラーの議論はとても緻密だ。彼はガダマーの哲学を参照しつつ、ガダマーが唱えた「地平融合」にアガペーが重要であることを指摘する。「地平融合」とは、ざっくり言えば「私はこういう風に世界を解釈してきた」と「いや、私はむしろこういう風に世界を解釈してきた」という二者の解釈を和解させて、より高次の解釈を生み出す営みを指す。地平融合の際にアガペーが、また「超越性」が大切な役割を担うことにテイラーは注目した。 アガペーといっても遠い話ではない。言い争っていたライバルが共通の目的の出現によって「とりあえずの団結」をすることがあるが、その際に互いに芽生える感情も、また、街中で幼い子どもが一人で泣いていた時に「放っておけない」と思う人々が手を取り合う状況も、アガペーの入り口である。アガペーには、まさに敵対関係だった人同士を団結させる力がある。そしてそれが、果ては全体性と個別性をも和解させるというのがテイラーの見立てである。 加えて、彼は「アガペーのネットワーク」を作ることを提案する。 本来は、宗教がそれを担ってきた(ただ、それを担う宗教と別の宗教が対立するという悲しい構造が存在する)。テイラーの別の著作『世俗の時代』でも指摘されているように、道徳的根拠は多くの場面で、いまや「神」ではなくなってしまった。グロチウスやロックらの自然法論が市場経済や公共圏、人民主権などの想像力を支えるようになり、道徳性の主たる源泉は道具的理性、普遍的意志、普遍的共感へとシフトした。そして、普遍的「博愛」なるものが唱えだされた。 それによって生じたのが、世界を意味あるもの=「コスモス」として受け止める態度よりも、ポスト・ガリレオ的な「宇宙」として受け止める態度が主流になっていくという流れだった。世界は機械的な因果関係に支配されているという発想は、科学性だけでなく道徳性の足場にもなった。そして宗教はそんな流れに、また世俗に組み込まれていってしまった(他方で宗教の側も、みずから同化しようと試みてきた。教義を科学で証明してもらおうとするように)。 おそらくこの流れを止めるのはむずかしい。ただ、流れが必然だとしても「より良く」流すという観点は大切で、一例をあげれば、テイラーは世俗主義者の限界を指摘することで新たな道を開こうと試みている。 残念ながら、多くのリベラルな世俗主義者は、宗教的多様性や形而上学的多様性を擁護するように見えて、実際は世俗的秩序を優先し、それらを世俗に適応させようと強いている。この構造は、いま外国人をめぐって起きていることと同型だ。「共生」を語る言葉の多くが、よく見ると「日本社会のやり方に合わせられる外国人」だけを歓迎している。受け入れに賛成する側でさえ、「労働力として必要だ」という言葉で語ることが多い。端的にいえば、それは「マイノリティはマジョリティ側に合わせろよ」という話で、その際に「マイノリティに対して『変わってるね』と思って忌避感を抱くマジョリティ側の倫理的問題」はあまり問われない。 この件で連想することがある。旧統一教会問題が過熱した時、教団叩きやその異常性をあげつらう言説が出るだけでなく、「宗教の信者たち」という「ちょっと変わった人たち」のその「変わった感じ」に対して「もっと一般社会に合わせたら?」と提案することがスマートであるかのような空気が広まった。これはシンプルに「マジョリティの側に合わせろよ」と同化を求める流れであり、平時に人権問題や差別問題を議論していけば、時には「ヤバイよね」となる空気なのだが、世の中が旧統一教会問題に一気に傾くと、そういう議論ができなくなるし、知識人たちも自分が同じことをしていることに気づかず、平気で信者の人権を蹂躙するようになった。 恐ろしかったのは、あの時、宗教的なロジックを公平に語ろうとすると、世間から「お前も統一教会の回し者か」と言われ、また、宗教2世被害者からも「正木は洗脳が解けてない」「ニセモノの2世被害者だ」「宗教貴族の家の生まれだから、本当の2世の気持ちはわからない」等と揶揄されまくったことだ。旧統一教会問題の雪崩の中で「宗教信者にも人権はあるんです」と話しても、マジで通用しない場面が多々あった。「ヤバさ」を指摘しても、雪崩の中にいる人たちから「お前の方がヤバイ」と返された。 ぼくは「ああ、戦前の日本ってこういう感じか」と、あのとき思った。 実は、テイラーの世俗論はこういった議論に資する内容になっている。 本書にはウィリアム・コノリーの引用がでてくる。コノリーは、先ほどのようにして世間が宗教に対して負の雪崩を起こす際の動力源になっているのは「信仰ってのは基本的にドグマ的だよね」という認識だと指摘している。だが、雪崩の話を読んで分かるように、雪崩時にあっては世間の側も相当にドグマ的だ。しかも、世間は自分たちのドグマ性に気づかず、宗教のドグマ性を嗤うのである。「信仰」を「外国人」に置き換えても、この構造はそのまま成立する。 こういった構造を受け、コノリーは「アゴーン的敬意」の重要性を示した。「アゴーン的敬意」とは、政治の場において「お互いの差異をちゃんと認識して、ドグマ的にならずに公的な合意図式に議論を当てはめようよ。だけど、人間にはそれって不可能なんだよね」という、人間に対する節度ある理解とちょうどいい不信に基づいた敬意のことだ。 コノリーはこの敬意をもとに、「私たち、お互いドグマ的ですから」と本気で思い合って(内心で「テメーがドグマ的だから議論が収拾つかないんだよ!」と揶揄して終わるのではなく、みたいな)、むしろドグマとドグマによる合意形成は必然であり、「だからこそ丁寧に、慎重にやっていきましょうよ」となれば政治もより良くなると考えた。 そして本書を読んで理解できるのが、その敬意の源泉になるものもまたアガペーだという点である。 もちろん、これは「アガペーを発動させるために、共通の敵を作りましょう、共通の憐れみの対象を作りましょう」といった陳腐な結論に着地する話ではない。 ぶっちゃけ、共通の目的による団結は、敵対構造を解消していない。境界線を引き直しているだけだ。昨日までのライバルと手を結べるのは、新しい「外」ができたからであって、ぼくらが変わったからではない。この論理の延長で社会をまとめようとすれば、行き着く先は「共通の敵」の再生産である。そして外国人をめぐる言説の一部は、まさにこの文法で人々を動員している。 アガペーが「無条件の」愛と呼ばれるのは、それが共通性を前提にしないからだ。泣いている子どもを放っておけないのは、その子が仲間だからではない。役に立つからでもない。理由の手前で、応答してしまう。テイラーが超越性という一見古めかしい言葉にこだわるのは、この「理由の手前」を基礎づける足場が人間の有用性の内側にはどうしても見つからないからだ。共通敵も共通の憐れみの対象も、それを気づかせてくれる入り口に過ぎない。 ここから外国人問題を見直すと、見える景色が変わる。 「外国人は危険だ」という排斥の言葉と、「外国人は労働力として必要だ」という受け入れの言葉は、対立しているように見えて実は同じ文法で書かれている。どちらも人間を全体性への貢献度、つまり社会の秩序や経済への寄与で数えている。そして有用性の言語では尊厳は基礎づけられない。有用性は「役に立たなくなった瞬間」に承認を取り下げる言語だからだ。無条件の源泉を持たない博愛が、やがて「助けるに値しない者」への軽蔑に転化していく光景をぼくらは何度も見てきた。 だから、冒頭のテーゼに戻ってくる。全体性に無条件に回収されることのない自律を基礎づけること。「統計的に何%ですか」という問いは、当然、外せない。統計なしに政策は作れない。ただ、その問いを発する側に、数字に回収されない人間の位相を保持する足場があるかどうかで同じ問いがまったく別のものになる。足場があれば、それは個別を尊重したままの検証になる。なければ、それは人間を頭数に変換する暴力になる。そこで必要なのは、隣人の外国人に不安を感じているというその人の実感そのものに応答することである。 人間を「何%」的な数字に変換することの雑さへの自覚があれば、その応答は始められると思う。その時に、統計を受け入れない相手を「非科学的だ」「非合理だ」と揶揄して終えば、個別制度全体性は交わらないままだろう。 『世俗と宗教のあいだ』 著者:高田宏史 発行:風行社@fuko_sha
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地震のあと、SNSには流言が走る。以前、動物園から猛獣が逃げたという画像付き投稿が炎上した。結果、投稿主は偽計業務妨害の疑いで逮捕された(見せしめの逮捕だと言われている)。その他にも、人工地震とか、「外国人が治安を悪くしている」みたいな話が災害のたびに蘇るのを見かける。ぼくらはそれを「情報リテラシーの問題」として語りがちだ。しかし、話はもっと深いところにあると本書は教えてくれる。デマは情報の失敗ではなく、物語の成功なのだ、と。 本書はナラトロジー(=物語論)の知見を人生論に接続した一冊である。出発点は「あなたは『物語る動物』です」とシンプルだ。人間は「時間の前後関係」の中で世界を把握し、出来事をストーリーの形式で理解せずにはいられない動物である。これは倫理学者マッキンタイアが人間を「物語る動物」と呼んだ議論とも響き合うし、心理学者ブルーナーが、論理科学的な思考とは別に人間には物語による思考の様式が備わっていると論じたこととも重なる。物語は趣味や娯楽ではない。認知の基本フォーマットである。 そして本書の核心は、ストーリーに「なぜ」の答え、つまり因果関係が組み込まれた瞬間に、人は「わかった」という感覚を抱いてしまうという指摘にある。「わかった」という感覚は、その説明が正しいことを保証しない。出来事Aのあとに出来事Bが起きた。それだけで、ぼくらの頭はAがBの原因だという物語を勝手に組み立てる。しかもその物語が、自分の持っている一般論——世間とはこういうものだ、あの人たちはこういう人たちだといった理解——に合致していれば、快感に近い納得が生まれる。デマが拡散する仕組みは、まさにこれだ。災害という「なぜ?」の塊を前にして、不安に耐えかねた心が、手持ちの偏見と合致する因果の物語に人を飛びつかせる。災害の実態はわからない。わからないからこそ、非常時ならこういうこともあるかも? と思って流言を信じてしまう。 流言研究の古典の中でオルポートらが、流言の流通量は事態の重要さと曖昧さに比例すると定式化したのは1940年代である。物語への渇きという観点から読み直せば、あの公式は「なぜ?」が大きいほど物語の需要が高まるという話でもある。 本書がさらに面白いのは、感情の問題に踏み込むところだ。目次には「感情のホメオスタシス」「僕たちはなぜ〈かっとなって〉しまうのか?」という節題が並ぶ。本書によれば、ぼくらは出来事そのものに反応しているのではなく、出来事を自分の一般論で物語化した解釈に反応して、怒ったり傷ついたりしていると言える。「あの人が挨拶を返さなかった」という出来事と、「あの人はぼくを軽んじている」という物語のあいだには、ほんとうは飛躍がある。その飛躍を、ぼくらは飛躍と気づかずに飛んでしまう。かっとなるとき、ぼくらは現実にではなく、自作の物語に激怒している。そして、たまたま本当に挨拶が聞こえなかっただけの相手に対して、「俺を軽んじるな!」と怒りをぶちまけてしまうのである。 ただし、物語をやめて、事実だけで生きればいいのかと言えば、そこはむずかしい。哲学の世界には、人生を物語として捉える見方自体を批判する議論もある。分析哲学者ガレン・ストローソンは、人生を一貫した物語として生きるべきだという規範に異を唱え、自己を物語化しない生き方の正当性を論じた。ぼくはこの論争に一理あると思っている。物語は人間の本性だという理解と、物語に回収されない生の擁護。この緊張の中から実践の知恵がでてくる。 著者は、物語の廃棄ではなく、編集権の奪還を訴えている。具体的には「不適切な信念 = 一般論から解放される」ことが大切だという。出来事は選べない。でも、出来事をどう物語化するかの態度は変えることができる。自分がいまどんな一般論を前提に、どんな因果を勝手に補ったのかを点検する。納得しかけたときこそ疑う。それは自分の人生の語り方についても同じで、「こういう人生であるべきだった」という自作のライフストーリーに苦しめられているなら、その脚本は書き直してもいいのである。 あなたの人生の物語化を、一般論や常識に主導されたままで良いのか? 著者はそう問いかける。 物語は人生につける薬である。本書の紹介文にあるこの惹句は、裏返せば、薬には用法用量があるということだ。災害のあとに出回る雑な物語に飲み込まれないための第一歩になるのは、フェイクを見抜く技術の前に、自分が物語なしではいられない動物だと認めることである。「デマを信じる愚かな誰か」と「物語を求める私」は別の生き物ではない。同じ渇きを抱えた同じ動物だと、まず知ることである。 書籍名:人はなぜ物語を求めるのか 著者名:千野帽子 出版社:筑摩書房(ちくまプリマー新書)
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「社会」という概念は昔からあった訳じゃない。「社会を変えたいんです」と語った時に現代なら意味が成り立つけれど、少し前まで人類にとっては「社会を変える」という発想を持つ事も「社会」を対象化する事も困難だった。その際に議論の対象になったのは国家像や法、制度で、それらを総合するような表現や言い回しは現代の「社会」とかなり違っていた。 もちろん、人類ははるか昔から集団を形成して共同生活を営んできた。それを「社会」と呼ぶことは可能だ。ただそれは、社会という概念が機能するようになった現代の視点で過去を照らし直すからできることであって、その時代に生きていた人たちが自分たちの社会を論じたり、「私たちの社会」を自覚できたわけでは恐らくない。というか、概念が育っていないので当時の人にとって「私たちの社会」は認識できないというか、存在しないとすらいえると思う。 国家も人権も、約束や責任や愛やお金も、すべては虚構だ。ぼくらはそれらをある種「実態のあるもの」として扱っているし、信じてもいる。が、たとえば民主主義の基礎セオリーとして信じられている「自立した個々人を根底的な基盤とし、その合意によって成立する」という考えに根拠がないように、国家や人権にも根底的な根拠はない。とりあえずそういう設定でみんなが生きているというだけである。 王政や共和制、帝政がどんどん入れ替わる中で、人々の共通認識や世論的なもの、運動は少しずつ動いていった。で、やがてそれらは丹念に読み解かれ、関連づけられるようになった。集団としての人々の振る舞いに目が向けられるようになり、その挙動と力学を体系的に明らかにしていく人も増えた。その過程で「社会」という概念が育ってきた。 で、ここからがおもしろい。実は「社会」概念の“育成史”は、単線的ではないという。 たとえば「社会」概念は、時に物神化された。社会自体が独立して価値があるもののように捉えられた(今もそう捉えられている場面は多い)。本来、社会はそれ自体で独立していないし、分解すればその実態は人間であり関係性である。ところが、その人間が不在であるかのようにして社会が論じられることが結構あった。そうして、「社会」概念は硬直化した。 その中で、別の動きがでてくる。 哲学者ベルクソンにおける「社会」概念の展開がそれだ。彼は、力動的かつ創造的な生命のエネルギーを足がかりに社会を捉えた。個々の生命活動や相互作用だけではない、ダイナミックな生々しい変化や関係性の流れが時に社会を進展させ、時に社会を停滞させていくと彼は論じた。この時、それまで硬直化させられていた「社会」概念が再び時々刻々と変化するものへ、いわば「もの」から「なまもの」へと捉え直された。 この変遷史を知ることは、実はとても大事である。 ぼくらは今でも社会を実態的に捉え、「なまもの」というよりは「もの」として論じてしまいがちだ。「世代」観念と結びつけた社会論はその典型だとぼくは思っていて、「◯◯世代にはこういう傾向がある」みたいな話を前傾化させ過ぎると、◯◯世代という以前にもっと確かに存在として捉えられるはずの「個々の人間」が見えなくなってしまう。「ゆとり世代はさあ」みたいな雑な議論が、そんな感じで展開されたりする。で、人間のなまものさを置き去りにしたシステム論が大手を振るえるようになってしまう。 これは、社会を論じる際の落とし穴だ。 そういうことにならないために、変遷史を知ることは有益である。 『「社会」の誕生』 著者:菊谷和宏 発行:講談社@kodansha_g
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編者は「はじめに」でこう書いている。「哲学と人類学をそれぞれに異なる『研究分野』と考えるのではなく、むしろ互いに『外』との関わりにおいて自らを問い直し、そのことで変容しつづけてきた思考の実践としてとらえ、その現代的な意義を確認することを主たる関心としている」。分野ではなく実践、この置き換えが本書の姿勢を決めていると思う。 本書は九章からなる論文集で、扱われるのはレヴィ=ストロースの構造主義、ラトゥールのアクターネットワーク理論、デスコラの自然観の類型論、ヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴ主義、そしてマルチスピーシーズ人類学といった議論だ。ひとまとめに存在論的転回(=人間の文化的な解釈の違いではなく、そもそも何が存在するかの捉え方の違いとして他者の世界を扱う潮流)と呼ばれる動きに日本語で見取り図を与えた仕事である。 ぼくが面白いと感じたのは、構造という古い言葉が、自然という言葉と組まれた途端に息を吹き返すところだ。 構造主義はかつて、人間の文化の背後にある無意識の秩序を取り出す方法だった。神話の多様性の下に共通の変換規則を見出す。この手法は、これまで乗り越えられた過去として扱われることがあった。だが、自然と人間の境界が問い直されはじめると構造は別の顔を見せる。人間の側にだけ秩序があるという前提が外れるからだ。 これは抽象的な話に見えて、そうでもない。 たとえばぼくらは、動物に感情があるかを議論するとき、たいてい人間の感情を基準に置く。犬が喜んでいるように見える、という言い方をする。ここでは人間が唯一の物差しで、他の生きものはその近似として測られている。存在論的転回が問うたのは、この物差しの独占だった。もし相手の世界の側から見たら、何が世界の中心に置かれているのか――この視点はとても大事で、それは「他者を理解するとは自分の枠に相手を収めることではなく、自分の枠のほうが特殊だと認めること」だということを教えてくれる。 この構えは、人間同士の関係にもそのまま持ち込める。 ぼくらは日常的に、噛み合わない相手に対して二つの態度しか用意していない。相手が間違っているとするか、価値観の違いだねと言って議論を畳むか。前者は暴力的で、後者は一見寛容に見えて、実は相手を理解の対象から外している。どちらも自分の枠を守るための手続きだ。 本書が示すのは第三の道である。相手の世界の組み立て方に付き合ってみて、その結果として自分の組み立て方が変わることを引き受ける。編者の言う「変容しつづけてきた思考の実践」とは、たぶんそういうことだ。 これは疲れる。時間もかかる。だから制度化された議論の場では、まず採用されない。会議もSNSも選挙も、そんな悠長な手続きを許す設計にはなっていない。それでも、「自分がこれまで『理解』と呼んでいたものの大半は、相手を自分の語彙に翻訳し終えた状態のことだったのだ」という気づきは重要だと思った。多様性とか異文化交流というのは、生ぬるいスローガンではなく、まさにこの困難に挑む地獄の道だからである。 理解とは、自分が変わることの別名だったのだ。 変わらずに済んだのなら、それは理解ではなく、たぶん分類である。 『構造と自然 哲学と人類学の交錯』檜垣立哉・山崎吾郎編著(勁草書房)
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言葉を変えれば、ネガティヴケイパビリティとは揺れ動かない湖のような心になることではなく、恐怖や興奮の中で、極端なことを考えるしかなくなっている自分自身に気づく心であると言える。嵐の中で右往左往しながら、嵐を見ようとする決意の心である。
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「多様性が大切」と言っている人同士が互いを認めず中傷し合っているのをよく見かける。多様性という言葉を「自分の意見を押し通すため」に利用している場面も見かける。わがままな自分を「多様性」という言葉で飾って、でも実際は「自分に都合のいい多様性しか認めない」という人もいる。そういった自身の不純さを「まず認識すべきでは?」と、カール・ポパーが昔から指摘していた。 「みんな違ってみんないい」と言われる一方で、「許容してよい度合い」はやはり個々人や文化、場面で違う。たとえば、それぞれを認めるにしても加害者と被害者を両論併記的に同列に扱ってしまってはいけないし、被害者を優先的に大切にしなければいけないという倫理は、社会を成り立たせるために当然必要。また、多様性を語るときには必ず「多様性を認めない人の多様性も認めるべきか」という議論もしなければならない。時には「多様性を蹂躙する人の非寛容さを認める訳には絶対にいかない」という判断をし、他者を場外に追い出すことの負い目を背負わなければいけない場面もある。 そもそも「みんな違ってみんないい」のだとして、加害者がいいと言っていいのか? という議論はやはりすべきである。つまりそれは「非寛容な人にも寛容であるべきか?」という古典的な問いに答えなければいけないケースで、ポパーはそのあたりを結構、明確に論じている。 「無制限の寛容は確実に寛容の消失を招く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる」 「ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を」 『開かれた社会とその敵』 著者:カール・ポパー
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あまりにも深い一言。👉「『怒り』は相手とともに生きていくことを前提にした感情です。一緒に生きていくために、してはならないことを決めたり伝えたりする行為が『怒り』です。たいして『憎悪』というのは共生を拒絶し、相手が存在すること自体を嫌う感情です」。この意味で、憤怒も共生の拒絶に繋がる。 『障害者ってだれのこと?』 著者:荒井裕樹 発行:平凡社@heibonshatoday
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「私が成吉思汗について一番書きたいと思ったことは、成吉思汗のあの底知れぬ程大きい征服欲が一体どこから来たかという秘密である」。井上靖は本書について、そう書き残している。歴史小説とは何か。史実とフィクションはどこで手を結び、どこで裂けるのか。『蒼き狼』は、その問いを日本文学史に刻みつけた作品だ。 物語の核にあるのは、テムジン、のちのチンギス・カンの出生の影である。彼の母・ホエルンは他部族から掠奪されてきた女性だった。テムジン自身、自分がほんとうに父イェスゲイの血を継いでいるのか、確信が持てない。だからこそ彼は、モンゴルの伝承にうたわれる蒼き狼の末裔であることを渇望し、血の証明の代わりに行為の証明を、つまり征服を積み重ねていく。井上はそう描いた。 ここでモンゴルの神話に触れたい。モンゴル最古の歴史書『元朝秘史』は、天の命を受けて生まれた蒼き狼と、その妻である白い牝鹿が大きな湖を渡ってきたという起源神話から始まる。蒼き狼と白い牝鹿を祖とするこの伝承は、モンゴル民族の誇りの源泉だった。また、掠奪婚は当時の草原では珍しいものではなく、女性をめぐる部族間の争奪が同盟と復讐の連鎖を生む社会の力学そのものだった。テムジンの母もテムジンの妻ボルテも、掠奪を経験している。井上はこの史実の骨格の上に「自分は何者か」という近代的な自己証明の主題を接ぎ木した。そして、この接ぎ木こそが日本文学史に残る論争を呼んだ。 1961年、大岡昇平が「群像」の文芸時評でこの作品を痛烈に批判した。大岡の言い分はこうだ。成吉思汗が出生の秘密に悩み、蒼き狼の伝承に霊感を受けて大征服を行ったという痕跡は史料のどこにもない。『元朝秘史』で家畜を害う獣として現れる狼を井上は都合よく読み替え、史料にない狼の原理を主人公に背負わせている。これが歴史小説と言えるのか、と。大岡は批判の結びにこう突きつける。「何よりまず歴史を知らねばならぬ。史実を探るだけではなく、史観を持たねばならない。この意味で、井上氏の文学は重大な転機にさしかかっているのである」。井上は自作について反論を書き、大岡はさらに再反論した。戦後文学を代表する二人が一冊の小説をめぐって真っ向からぶつかった。 ぼくはこの論争を、どちらが勝ったかで語りたくない。むしろ、小説家と批評家が全力で衝突したこの緊張そのものが日本の歴史小説を鍛えたのだと思う。争点は要するに、歴史小説はどこまで史実を離れてよいかという一点だった。史実に忠実なだけの物語は年表になる。史実を離れすぎた物語は歴史の衣装を借りた空想になる。その細い尾根を歩くのが歴史小説家の宿命だ。 大岡の批判は史学的にはおおむね正しい。今日のモンゴル史研究の水準から見ても、井上のチンギス像は史実から遠い。だが、それでもぼくは思う。井上は史料の裂け目に「人間の孤独」という光を差しこんだ。出自の不安を行為で埋めようとする人間の業。それは十三世紀の草原にではなく、いつの時代のどの人間の内にもある。自分が何者かを血統で証明できないから行為で証明しつづける。この構図は、身分や家柄が効力を失った近代人の姿そのものではないか。 ぼくらは誰も、生まれによっては何者でもない。だから業績で、実績で、フォロワー数で、自分を証明しつづける。井上が成吉思汗に託したのは、たぶん、近代人の終わりのない自己証明の苦しみだった。だからこの小説は、十三世紀の物語でありながら、読む者の現在に刺さる。 『蒼き狼』井上靖(新潮文庫、新潮社)
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「進化」という言葉を、ぼくらはビジネスの現場でもよく見かける。組織を進化させる。思考を進化させる、などなど──進化生物学者デイヴィッド・スローン・ウィルソンは、その安易な比喩の用い方を直そうとする。本書の主張を一言でいえば、「進化とは生物の体の話だけではない。それは、変異と選択と継承がある場所ならどこでも起きる、普遍的なプロセスだ。だから、人間の社会や文化や制度もまた、進化の言葉で理解できる」ということになる。だが、日常で使われる「進化」という語は、そのような定義から外れていることが多い。 著者が繰り返し使う軸が、「マルチレベル選択」である。淘汰は、遺伝子・個体・集団という複数の階層で同時に働く。この視点を、生物だけでなく人間の社会組織にまで一貫して適用していく。 ぼくがこの本で膝を打ったのは、著者が実際の街づくりの現場にこの理論を持ち込む場面だった。彼は、自分の住む都市で住民の協力行動が地域ごとにどう違うのかを実地で調べていった。理論を机上に留めず、フィールドに下ろしたのだ。その態度の根っこには、著者の変わらぬ問題意識がある。それは、利己と利他をめぐる問いである。なぜ生物は利他に似た行動を取るのか。結論から言えば、最終的には利他っぽい行動が集団全体の利己に結びつくから、ということに行き着く。 そして、一部生物の進化の歴史は、この利己と利他がせめぎ合いながら、集団全体の存続を実現してきた歩みとして理解できる。きょうも、多くの生物種の中で利己と利他がぶつかり合っているのだ。 本書がぼくらに与えてくれる視点には大きな意味がある。ぼくらはつい、社会の問題を「個人の心がけの問題」に還元してしまう。もっと思いやりを持て、もっと協力し合え、と。でも、本書は言う。協力が生まれるかどうかは個人の善意ではなく、その集団がどう設計されているかで決まる、と。 そして問う。 ぼくらが生きているこの社会は、利己と利他、どちらのレベルの淘汰を強く働かせるように設計されているのだろうか、と。 個人の利己を煽る仕組みか。それとも、集団の協力に報いる仕組みか。社会は「どう進化するのか」を知ることは、たぶん、ぼくらが社会を「どう設計したいのか」を自分の頭で考え始めるための最初の一歩なのだと思う。利己を突き詰めた結果、環境適応ができなかった生物種もある。なら、ぼくら人類がどちらかに傾斜しすぎて環境適応が不可能となり、絶滅の憂き目に遭うことも当然あり得るだろう。 『社会はどう進化するのか 進化生物学が拓く新しい世界観』デイヴィッド・スローン・ウィルソン著、高橋洋訳、亜紀書房@akishobo
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今度しばらくモンゴルに行くので、いろいろ予習している。以下、本書の感想。👉「あなたモンゴルでも行く?」。この一言から、給食調理の仕事をしていた著者の人生は大きく変わった。在モンゴル日本国大使館の公邸料理人となった著者が草原の食と暮らしを体当たりで綴ったエッセイが本書である。ぼくはこの本をひとつの文明論として読んだ。食は、その土地の自然と歴史のすべてが凝縮する場所だからだ。その土地の文化も思想も、食に表れるのである。 モンゴルの食文化には明快な体系がある。肉を中心とする赤い食べ物「オラーン・イデー」と、乳製品を中心とする白い食べ物「ツァガーン・イデー」の二分法だ。遊牧民は羊、山羊、牛、馬、ラクダの五畜を飼い、乳の出る夏は搾乳して乳製品を作り貯え、家畜が肥える秋に屠って冬は肉で越す。北里大学の有原圭三さんは東北畜産学会報の解説で、「モンゴルでは古くから食生活の中心に乳と肉が据えられてきた」と述べ、この二分法が今日でもモンゴル人の食生活の中心にあると報告している。季節のサイクルがそのまま食の体系になっている。夏は白、冬は赤。食卓に一年の時間が刻まれているのだ。 本書が鮮やかなのは、著者がこの食文化の合理性を、現地の人々との交流のなかで体感的に解き明かしていくところである。著者の友人はこう問うたという。草を食べた家畜の肉を食べているのに、なんでわざわざ野菜を食べるのか、と。面白い見方である。乾燥と寒冷のモンゴル高原では、人間が直接食べられる植物はほとんど育たない。しかし、家畜は人間が消化できない草を、肉と乳に変換してくれる。つまり、遊牧とは「人間が直接利用できない草原の膨大な資源を、家畜という装置を通して食に変える精緻なエネルギー変換システム」なのだ。 他方で、なぜ豚や鶏を飼わないのか。彼らは長距離の移動についてこられず、草ではなく人間と競合する穀物を必要とするからだ。五畜の構成すら、環境から合理的に導かれている。ぼくらが栄養学の常識と信じている「野菜を食べなさい」は、農耕地帯というローカルな環境の産物にすぎないのかもしれない。 ちなみに── 「カルピス」の名称は、牛乳に含まれる成分「カルシウム」と、仏教の経典に登場するサンスクリット語の「サルピス(熟酥・じゅくそ)」を掛け合わせて名付けられた。仏教における牛乳の精製過程「五味(ごみ)」の教えが深く関わっていて、かつてぼくも仏教書で同様の内容を読んだ。 創業者の三島海雲は僧侶でもあり、内モンゴルで出会った酸乳の美味しさと健康効果をヒントに飲み物を開発した際、この「五味」の考え方をヒントに取り入れ、4番目の段階である「熟酥(サルピス / sarpis)」をベースにし、当時流行していた「カルシウム」と組み合わせて「カルピス」と命名したのである。 さて、本題に戻ろう。 ここで、二項対立をひとつ立ててみたい。 モンゴルの食は野蛮か、合理か。 羊を屠るとき、遊牧民は胸を小さく切開し、手を入れて大動脈を握りつぶす。血を一滴も大地にこぼさないためだ。血は腸詰めにし、臓物も骨も余さず使いきる。都市に暮らすぼくらの目には衝撃的な光景かもしれない。だが、視点を変えれば、これほど命を丁寧に頂ききる食文化があるだろうか、とも思う。食品を毎日大量に廃棄しながら、屠畜の現場だけを残酷と呼ぶぼくらの感性のほうが、よほどねじれている。文化人類学者の小長谷有紀さんが繰り返し論じてきたように、モンゴルの乳加工は、乳の性質を経験的に知り尽くした精緻な知の体系だ。ヨーグルト、チーズ、乳酒、乳茶。冷蔵庫のない草原で乳を保存するために発酵と乾燥のあらゆる技術が磨かれてきた。野蛮どころか、そこには何百年もの科学がある。 著者は公邸料理人として日本の食材が乏しい環境で和食を作る工夫を重ねながら、同時にモンゴルの食の懐へ深く入っていく。マイナス30度の冬。人も家畜も、支え合わなければ生きられない世界。その厳しさこそが食への敬意を育てたのだと、読みながら何度も思った。安定的な食の環境がなかなかないからこそ、食への感謝は尽きないのだ。 ご関心のある方は、ぜひ本書を直に読んでみてほしい。 『まんぷくモンゴル!公邸料理人、大草原で肉を食う』鈴木裕子(産業編集センター)
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こちらも、ぜひ。👉 「人の意見なんか聞く必要はない」「なめられたくない」「自分は間違っていない」――そうやって頑なになってしまう人の心理には、①聞かないことにメリットがある、②自身は悪くないということにしたい欲望、③プライドを守りたい欲望の3つが働いているという。たとえば、「ラーメンを早く食べたい」と思って二郎系ラーメンの行列に割り込み、それを指摘されても認めないのが、①である。そのまま列に入り込めれば、実際に早く食べられるというメリットが生まれるのだ。②は、ミスを指摘されても「私はミスしていない」と反論するように、自身の悪を否認したがることがそれにあたる。そして③は、自分の立場の方が上だから「わざわざお前の意見など聞く必要はない」と思っているパターンである。 そして、この3要因を下支えしている因子が、①強すぎる自己愛、②妄想、③強迫観念の3つである。 自己愛は誰もが持っているものだが、それが過剰になると、自己防衛のために他人の意見を拒否するようになる。そしてそれが強まると、「あの人は私に悪意があるのでは」といった妄想を抱くようになり、それがやがて強迫観念にすらなっていく。 仮に、あなたがCIAに命を狙われているという妄想を抱いたとしよう。これは誰がどう見ても不合理なのだが、信じている本人は真剣である。その人にとっては、身辺のささいな物音や車の傷、ペットの異常な吠え、隣人の行動変化など、すべてがCIAに関連していると解釈できる。そして、妄想にとり憑かれると、実際にそう解釈してしまう。で、これが大変なのは、内容の訂正が事実上ほぼ不可能だという点だ。つまり、否認ができない。反証、要するに、CIAに狙われて「いない」ことを証明するのが非常に困難なのだ。そのため、本人はどんどんこの妄想→強迫観念にとり憑かれていく。 他人の意見が聞けなくなる人も、この精神構造の変化に近似した道をたどるという。 特に現代は情報が錯綜し、真偽不明の情報に踊らされがちだ。しかも、雇用が不安定になっているのをはじめ、いろいろな不確定性に満ちた世の中では基本的に自己保身の機運が高まる。そんな環境下で上記のようなスパイラルに陥ると、本人が自身の努力で抜け出せないのもそうだし、他人がその人を「抜け出させる」こともほとんどできないらしい(これは、精神科医としての著者の臨床経験に基づく)。 それゆえ、著者はこう結論づける。 他人の意見が聞けない人からは、関わる価値がないのであれば離れよ、と。 特に、他人の意見を「聞かない」のではなく、「聞けない」のだと判断できる時には、助言をしたり説得したりする努力はやめた方が賢明だという。 対処法もかなり消極的だ。基本は ①本人が痛い目を見るまで放置する ②第三者を交えた場で、筋の通った意見をユーモアを交えながら毒を吐く覚悟を持つ の2つである。もちろん、本書はその他にも事例を交えて対処法の具体論に踏み込んでいて、そちらも興味深い。 関心のある方は、ぜひ読んでみてほしい。 『他人の意見を聞かない人』 著者:片田珠美 発行:KADOKAWA
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この著者は、心理の世界の言語化がとても上手だと思った。「他人を攻撃せずにはいられない人」の内面への指摘や、攻撃を受けやすい人の特徴、攻撃を受けているのに気づかない人の心理などを描いた言葉に、ハッとさせられる。長いけど、めちゃくちゃ読んで欲しい。Xでよく見かける人たちの心理構造への理解の解像度も上がると思う。以下、引用。👉 「攻撃欲が強い人が欲しているのは、破壊である。他の誰かがうまくいっているのが許せない。それゆえ、他人の幸福や成功に耐えられず、強い怒りや敵意に突き動かされて、とにかく壊そうとする。  そこに利害がからんでいる場合もある。自分自身の願望や利益しか頭にない彼らは、自分が望むものを手に入れるうえでの邪魔者に対して、攻撃の刃を向ける。たとえば、あるポストに自分が就くために、ライバルを陰で中傷したり、足を引っ張ったりして、蹴落とそうとするような場合が典型例だろう。自分の行動がどれだけ混乱を巻き起こしたり、迷惑をかけたりするか、などということには決して目を向けようとしないわけである。  このようなエゴイストはなるべくなら近くにいてほしくないものだが、意図がわかりやすいため、実は対処もしやすい。厄介なのは、自分の利益がからんでいるわけでもないのに、あなたを打ちのめし、あなたがやっていることを台なしにし、ときには、あなたの人格そのものまで破壊しようとするようなタイプである。  しかも彼らは、悪意を隠して攻撃する。もしくは自分自身の悪意に気づいておらず、無自覚のまま、非常に残酷なことをやってのける場合もある。しばしば、『あなたのためを思って』とか、『こういう理由があってやっているんだよ』とかいった言い方で接してくるが、その善良で優しそうな仮面の下に何らかの悪意を隠し持っている」 「自分の近くにいる人の攻撃欲を見抜くことはとても難しい。 『いやいや、化けの皮なんてすぐにはがれる』とお思いになるかもしれない。でも実際には、自分が攻撃を受けていることに気づかないままでいる人はとても多い。  他の人がターゲットになっている場合は、比較的簡単に見破ることができる。気づきにくいのは、自分自身がターゲットにされているケースである。先ほど紹介した女性の事例からもわかるように、自分が痛い目に遭うまでは、はっきり認識するのが難しく、時間がかかることが多いのだ。  しかも厄介なことに、攻撃欲のある人は、攻撃していることを周囲に気づかれないように隠蔽することが多い。先の女性も、『先輩は、私の憧れです』などという歯が浮くようなおべんちゃらを真に受け、安心して愚痴をこぼしたり、新しい企画について相談したりしていた結果、気づいたときにはもう手遅れだったわけである。  このように、相手を直接攻撃するわけではなく、遠回しに打ちのめそうというタイプから身を守ることは、なかなか難しい。そういう人は虚実とり混ぜて語るし、誠実そうにふるまっていたかと思うと突然計算高さをのぞかせる。こうした二面性もあるので、一体どういう人なのかわかりにくく、周囲がころっとだまされることになりやすい」 「攻撃欲の強い人は、世間で一般に『善』として受け入れられているようなことをよく引き合いに出す。  正直でなければならないとか、寛大でなければならないといった、それが適切かどうか、日頃は誰も疑ってみないような考え方を持ち出すことが多い。子供の頃からしつけや教育の中で教え込まれてきた支柱であり、おとなしく従順な人ほど、こういうことがきちんと守られなければ社会は成り立ちえないと信じ込んでいる。(中略)  そこにつけ込んで、自分に都合のいいようにねじ曲げて解釈するのが、攻撃欲の強い人である。もし、あなたが何かを頼まれて断ったら、『友達が困っているのに助けないなんて、冷たい』といった言葉を吐いて、罪悪感を覚えさせるように仕向けるわけである。(中略)  相手に罪悪感を抱かせるうえで何よりも有効なのは、自分が被害者のふりをすることである。そうすれば、自分の責任は全て否認できるのだから。そのため、何か具合の悪いことがあっても、悪いのは常に他の誰かであり、自分はあくまでも被害者なのだという印象を周囲に与えようとする。  ターゲットにされやすいのが、誰かが困っているとすぐに同情して、助けてあげたい、慰めてあげたい、守ってあげたいなどと思うような人なのは、決して偶然ではない。こんなふうに優しい人は、少しでも責められると、悪いのは自分なのかと罪悪感を抱きやすいので、攻撃対象としてうってつけなのである。  そのうえ、攻撃欲の強い人は逃げるのもうまい。もし、あなたが、『私が一体何をしたというのだろう? なぜ私がこんなに責められなければならないのだろう?』と疑問を感じて質問しても、巧妙に話をそらせたり、論点をすり替えたりする。ときには、別のことであなたを攻撃して、あなたの心の中にさらなる混乱の種をまくかもしれない。  だいたい、質問にはちゃんと答えず、はぐらかす達人である。そのため、あなたが、自分には落ち度がないのに責められることが納得できず問いかけても、のれんに腕押しだ。あなたは、痕跡を残さずに殴られ続けているような気になるかもしれない。  要するに、攻撃していることを隠蔽しながら攻撃するのが常套手段である。もし、わかりやすいやり方で直接攻撃するようなことをすれば、反撃されるかもしれない。説明を求められるかもしれない。場合によっては、相手が防御したり、逃げ道を見つけたりするかもしれない。そうさせないために、自分は責めているわけでも、攻撃しているわけでもないと否認しながら、ターゲットを身動きできない状態に追い込んでいくわけである」 「ターゲットを孤立させるのも、攻撃欲の強い人の常套手段である。  従事している仕事や活動をけなしたり、せっかく築いた人間関係にけちをつけたりして、徐々に他の人とのつながりを断ち切るように仕向けていく。そのために脅すこともあれば、いさかいの種をまくこともあるが、いずれにせよ、周囲との関係に亀裂を入れようとする。  これは、ターゲットが他の人との交流によって考えを変えたり、支えてもらったりするようになるのを防ぐためである。そんなことになれば、影響力を行使しにくくなるので、シャットアウトするわけである。  というのも、攻撃欲の強い人は、自分がその場を支配できないとか、影響力を行使できないという状況に直面すると、強い不安にさいなまれるからである。そこで、そういう事態を極力避けるために、自分の思い通りに操作できるよう策を弄することになる。  ターゲットの家族、友人、同僚、さらには仕事や趣味にまでけちをつける。ターゲットが好意的な判断を下しているものでも、批判したり、けなしたりして、締め出そうとする。『あんな親だと、うまくいかないのは全て親のせいにできるよね』『なぜ、あなたがあんなことに貴重な時間を使うのか、わからない』といった言い方で、ターゲットが周囲の人々に対して疑惑や不信感を抱くように仕向けるのである。  このように孤立させようとするのは、自分のあずかり知らぬところで、ターゲットが能力を発揮したり楽しみを見出したりすることに耐えられないからでもある」 「ある人が攻撃欲の強い人だということに気づいたら、最良の解決策は、できるだけ避けるということである。  たとえば、同じ職場で働いている場合、勤務の時間帯を変更するとか、向こうがよく行く場所には足を向けないようにするとかして、なるべく顔を合わせないようにする。場合によっては、異動や転勤を申し出るという選択肢だってあるかもしれない。  そこまでするかと思われるかもしれないが、私の外来に通っていた会社員の女性は、背後を通り過ぎる際に『死ね』とつぶやいたり、すれ違いざまに『邪魔』と叫んだりする先輩に悩まされて眠れなくなり、しばらく休職した後、自ら希望して別の支店に転勤した。  転勤後、受診した際に、『支店が変わって、本当に良かった。ずっと胸につかえていたものが、やっと取れたような気がします。会社に行っても、あの人の顔を見ずにすむのかと思うと、伸び伸びと仕事ができます。ときどき、研修会や会議などで会うこともありますが、もう私とは関係ありませんから』と語った。ちなみに、例の先輩はその後、新たに配属された女性社員をターゲットにして同じような嫌がらせを繰り返したため、パワハラ委員会に告発されたということである」 『他人を攻撃せずにはいられない人』 著者:片田珠美 発行:PHP研究所 @PHP_Business
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この著者は、心理の世界の言語化がとても上手だと思った。「他人を攻撃せずにはいられない人」の内面への指摘や、攻撃を受けやすい人の特徴、攻撃を受けているのに気づかない人の心理などを描いた言葉に、ハッとさせられる。長いけど、めちゃくちゃ読んで欲しい。Xでよく見かける人たちの心理構造への理解の解像度も上がると思う。以下、引用。👉 「攻撃欲が強い人が欲しているのは、破壊である。他の誰かがうまくいっているのが許せない。それゆえ、他人の幸福や成功に耐えられず、強い怒りや敵意に突き動かされて、とにかく壊そうとする。  そこに利害がからんでいる場合もある。自分自身の願望や利益しか頭にない彼らは、自分が望むものを手に入れるうえでの邪魔者に対して、攻撃の刃を向ける。たとえば、あるポストに自分が就くために、ライバルを陰で中傷したり、足を引っ張ったりして、蹴落とそうとするような場合が典型例だろう。自分の行動がどれだけ混乱を巻き起こしたり、迷惑をかけたりするか、などということには決して目を向けようとしないわけである。  このようなエゴイストはなるべくなら近くにいてほしくないものだが、意図がわかりやすいため、実は対処もしやすい。厄介なのは、自分の利益がからんでいるわけでもないのに、あなたを打ちのめし、あなたがやっていることを台なしにし、ときには、あなたの人格そのものまで破壊しようとするようなタイプである。  しかも彼らは、悪意を隠して攻撃する。もしくは自分自身の悪意に気づいておらず、無自覚のまま、非常に残酷なことをやってのける場合もある。しばしば、『あなたのためを思って』とか、『こういう理由があってやっているんだよ』とかいった言い方で接してくるが、その善良で優しそうな仮面の下に何らかの悪意を隠し持っている」 「自分の近くにいる人の攻撃欲を見抜くことはとても難しい。 『いやいや、化けの皮なんてすぐにはがれる』とお思いになるかもしれない。でも実際には、自分が攻撃を受けていることに気づかないままでいる人はとても多い。  他の人がターゲットになっている場合は、比較的簡単に見破ることができる。気づきにくいのは、自分自身がターゲットにされているケースである。先ほど紹介した女性の事例からもわかるように、自分が痛い目に遭うまでは、はっきり認識するのが難しく、時間がかかることが多いのだ。  しかも厄介なことに、攻撃欲のある人は、攻撃していることを周囲に気づかれないように隠蔽することが多い。先の女性も、『先輩は、私の憧れです』などという歯が浮くようなおべんちゃらを真に受け、安心して愚痴をこぼしたり、新しい企画について相談したりしていた結果、気づいたときにはもう手遅れだったわけである。  このように、相手を直接攻撃するわけではなく、遠回しに打ちのめそうというタイプから身を守ることは、なかなか難しい。そういう人は虚実とり混ぜて語るし、誠実そうにふるまっていたかと思うと突然計算高さをのぞかせる。こうした二面性もあるので、一体どういう人なのかわかりにくく、周囲がころっとだまされることになりやすい」 「攻撃欲の強い人は、世間で一般に『善』として受け入れられているようなことをよく引き合いに出す。  正直でなければならないとか、寛大でなければならないといった、それが適切かどうか、日頃は誰も疑ってみないような考え方を持ち出すことが多い。子供の頃からしつけや教育の中で教え込まれてきた支柱であり、おとなしく従順な人ほど、こういうことがきちんと守られなければ社会は成り立ちえないと信じ込んでいる。(中略)  そこにつけ込んで、自分に都合のいいようにねじ曲げて解釈するのが、攻撃欲の強い人である。もし、あなたが何かを頼まれて断ったら、『友達が困っているのに助けないなんて、冷たい』といった言葉を吐いて、罪悪感を覚えさせるように仕向けるわけである。(中略)  相手に罪悪感を抱かせるうえで何よりも有効なのは、自分が被害者のふりをすることである。そうすれば、自分の責任は全て否認できるのだから。そのため、何か具合の悪いことがあっても、悪いのは常に他の誰かであり、自分はあくまでも被害者なのだという印象を周囲に与えようとする。  ターゲットにされやすいのが、誰かが困っているとすぐに同情して、助けてあげたい、慰めてあげたい、守ってあげたいなどと思うような人なのは、決して偶然ではない。こんなふうに優しい人は、少しでも責められると、悪いのは自分なのかと罪悪感を抱きやすいので、攻撃対象としてうってつけなのである。  そのうえ、攻撃欲の強い人は逃げるのもうまい。もし、あなたが、『私が一体何をしたというのだろう? なぜ私がこんなに責められなければならないのだろう?』と疑問を感じて質問しても、巧妙に話をそらせたり、論点をすり替えたりする。ときには、別のことであなたを攻撃して、あなたの心の中にさらなる混乱の種をまくかもしれない。  だいたい、質問にはちゃんと答えず、はぐらかす達人である。そのため、あなたが、自分には落ち度がないのに責められることが納得できず問いかけても、のれんに腕押しだ。あなたは、痕跡を残さずに殴られ続けているような気になるかもしれない。  要するに、攻撃していることを隠蔽しながら攻撃するのが常套手段である。もし、わかりやすいやり方で直接攻撃するようなことをすれば、反撃されるかもしれない。説明を求められるかもしれない。場合によっては、相手が防御したり、逃げ道を見つけたりするかもしれない。そうさせないために、自分は責めているわけでも、攻撃しているわけでもないと否認しながら、ターゲットを身動きできない状態に追い込んでいくわけである」 「ターゲットを孤立させるのも、攻撃欲の強い人の常套手段である。  従事している仕事や活動をけなしたり、せっかく築いた人間関係にけちをつけたりして、徐々に他の人とのつながりを断ち切るように仕向けていく。そのために脅すこともあれば、いさかいの種をまくこともあるが、いずれにせよ、周囲との関係に亀裂を入れようとする。  これは、ターゲットが他の人との交流によって考えを変えたり、支えてもらったりするようになるのを防ぐためである。そんなことになれば、影響力を行使しにくくなるので、シャットアウトするわけである。  というのも、攻撃欲の強い人は、自分がその場を支配できないとか、影響力を行使できないという状況に直面すると、強い不安にさいなまれるからである。そこで、そういう事態を極力避けるために、自分の思い通りに操作できるよう策を弄することになる。  ターゲットの家族、友人、同僚、さらには仕事や趣味にまでけちをつける。ターゲットが好意的な判断を下しているものでも、批判したり、けなしたりして、締め出そうとする。『あんな親だと、うまくいかないのは全て親のせいにできるよね』『なぜ、あなたがあんなことに貴重な時間を使うのか、わからない』といった言い方で、ターゲットが周囲の人々に対して疑惑や不信感を抱くように仕向けるのである。  このように孤立させようとするのは、自分のあずかり知らぬところで、ターゲットが能力を発揮したり楽しみを見出したりすることに耐えられないからでもある」 「ある人が攻撃欲の強い人だということに気づいたら、最良の解決策は、できるだけ避けるということである。  たとえば、同じ職場で働いている場合、勤務の時間帯を変更するとか、向こうがよく行く場所には足を向けないようにするとかして、なるべく顔を合わせないようにする。場合によっては、異動や転勤を申し出るという選択肢だってあるかもしれない。  そこまでするかと思われるかもしれないが、私の外来に通っていた会社員の女性は、背後を通り過ぎる際に『死ね』とつぶやいたり、すれ違いざまに『邪魔』と叫んだりする先輩に悩まされて眠れなくなり、しばらく休職した後、自ら希望して別の支店に転勤した。  転勤後、受診した際に、『支店が変わって、本当に良かった。ずっと胸につかえていたものが、やっと取れたような気がします。会社に行っても、あの人の顔を見ずにすむのかと思うと、伸び伸びと仕事ができます。ときどき、研修会や会議などで会うこともありますが、もう私とは関係ありませんから』と語った。ちなみに、例の先輩はその後、新たに配属された女性社員をターゲットにして同じような嫌がらせを繰り返したため、パワハラ委員会に告発されたということである」 『他人を攻撃せずにはいられない人』 著者:片田珠美 発行:PHP研究所 @PHP_Business
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14:00頃、五ノ井さんが働くお店へ。スコーンなど売り切れ続出みたいで、心躍りました。お菓子作りを習得しつつレジにも立ち、箱詰め等も楽しそうな五ノ井さん。門出を心より応援しています。またいろいろ語りましょー☺️(「ザ・スコーンズ・ミャオ」東京都練馬区貫井1丁目7-29〈建物2F〉、西武池袋線「中村橋」駅からすぐ、店舗情報や営業日詳細等はリプ欄のサイトをご確認ください)。
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しびれる。人類が絶滅したとしたら、その痕跡など5000年も経てばほぼ残らず、プラスチックなど分解が困難なものだけがわずかに環境中を彷徨うくらいである。人類の存続といっても、時限付きのほんのわずかな期間でしかない。人間は泣き笑い、怒り争い、猛り狂っているが、その状況も数千年単位で見ればほとんど違いがない。👉「千年の単位でみれば、人間の情熱のさまざなちがいは融けてひとつになる。人間たちが感じた愛や憎しみ、彼らの約束、彼らの闘争、彼らの希望、時間はそれらに何もつけ加えず、それらから何も差し引くことはない。昔と今、このふたつはつねに同じなのだ。どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。唯一失われるものがあるとすれば、それはこれらの千年、二千年が生み出した芸術作品だけである」 『みる きく よむ』 著者:レヴィ=ストロース 発行:みすず書房
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2022年発刊の本。日本には精神科の病床が約32万床あるという。これは世界の精神科病床のおよそ5分の1にあたる。人口比で見れば、経済協力開発機構(=OECD、先進国が集まる国際機関)の加盟国の中で日本は突出して多い。本書は、そうなった経緯と、日本の精神医療の閉じられた内側に分け入った調査報道である。タイトルの「収容所列島」は、ソルジェニーツィンのかの有名な記録文学を踏まえている。 本書が突きつける事実の一つが、入院期間の長さだ。日本の精神科の平均在院日数は、他の先進国が数週間から数十日単位であるのに対し、桁が違う。かつては300日を超えることもよくあったし、何年、何十年も病院の中で暮らし続ける人もいる。医学的にはもう入院の必要がないのに、退院後に地域で暮らす受け皿がないために病院に留め置かれる場合もある。これを「社会的入院」と呼ぶ。病気だから入院しているのではない。社会に居場所がないから入院させられているのだ。 ぼくがこの本を読みながら何度も立ち止まったのは、身体拘束をめぐる記述だった。ベッドに手足を縛りつけられ、身動きが取れないまま過ごす。その拘束を受けている患者の数は、特にこの十数年で大きく増えた時期があった。安全のため、治療のため、という説明はつく。だが、本書が描くのは、その「〜のため」という言葉の内側で人としての尊厳がどれほど削られていくかという現実だった。海外から来て日本の病院で亡くなった青年のケースも報じられ、身体拘束のあり方は国際的にも問われた。 恐ろしいのは、社会的な二重基準である。もしこれが刑務所の話だったら、ぼくらは人権を問題にするだろう。もしこれが高齢者施設の虐待だったら、ニュースは大きく報じるだろう。でも、ことが精神医療の話となると、「病気なんだから仕方ない」「専門家が判断しているのだろう」と考えて思考を止めてしまう。その無関心こそが、この巨大な収容の構造を静かに支えてきた。 ぼくも精神病棟に長らく入院していたし、障害者支援を20年以上続けているので、その事情をなんとなく感じていた。 では、なぜ日本はこうなったのか。 本書は歴史をさかのぼる。かつて欧米が精神科病院を減らし、患者を地域で支える方向へ大きく舵を切った時期に、日本は逆に民間の精神科病院を次々と増やす政策をとった。病床は増え続け、いったん膨らんだ構造は、経営の論理とも結びついて簡単には縮まなくなった。病院にとって「埋まっている病床」は収入源でもある。退院を積極的に進める動機が構造的に弱い。ここには、悪意ある個人がいるというより、誰も望んでいないのに膨張していくシステムそのものの問題がある。 その上で本書がすぐれているのは、この構造を告発しながらも、現場の医師や看護師を単純な悪役にしないところだ。限られた人員と予算のなかで、多くの職員は必死に患者と向き合っている。問題は個人の資質ではなく、そういう個人の善意すら飲み込んでしまう制度設計のほうにある。だからこそ、根が深い。 32万床という数字の向こうに、一人ひとりの名前を持った人生がある。そのことを忘れずにいることだけは、ぼくにも引き受けられる。最低限の責任なのだと思う。 『ルポ・収容所列島 ニッポンの精神医療を問う』風間直樹・井艸恵美・辻麻梨子著、東洋経済新報社
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村上春樹『夏帆』、じんわり来る。主題の一つは確かに「母殺しの物語」だ。だがそれは、フロイト以来のエディプス的図式や河合隼雄が定式化した親殺しの類型ではない。母娘密着からの離脱譚でもない。決定的なのは殺害の対象である。詳細は伏せるけれど、殺されるべき母は行為に先立ってすでに対象からかなりの部分で切り離されていた。主体は殺すべき母を最初から喪失したまま行為へと向かっていた。母殺しは、その核心において構造的に空転するよう設計されていたのだ。 本書を『海辺のカフカ』の父殺しの鏡像と読むのも、母の救済の物語と読むのも、ルッキズム批判の書と括るのも、それぞれ読み方としてとても意義深いと思う。その上で上記のような空転を本作の中心的なメッセージとして読むことがぼくにはしっくりきた。 考えてみたい。殺すべき母がすでに失われているのなら、この物語で実際に切断されるのは何か。母という人格ではなく、母に取り憑いた「何か」であり、もっと言えば、それは母をめぐって主体の内側に固着してきた物語のほうだ。親との関係に苦しむ人間はしばしば「親を乗り越えるには親を(象徴的に)殺すしかない」という古い図式に縛られる。でも、その図式は関係の破壊か服従かという二択を強烈に感じさせる。しかし本作が差し出すのはそのどちらでもない第三の道だったように思う。切り離すべきは人ではなく、人を占拠している物語である。だから刃は母そのものではないものに向かうのである。そこでは攻撃と看護が、切断とケアが同じ一つの行為のなかで両立する。その世界観を描いたところにぼくは痺れた。 もう一つ。夏帆が絵本作家であることが重要である。自分の人生の物語を自分で書くためには、それまで自分を書いてきた物語をまず終わらせなければならない。殺すことが再生をもたらすのではない。再生しようとすれば何かを殺さざるを得ない。この順序の反転こそ、作者が仕込んだ核心だとぼくは読む。そして重要なのは、その行為が無償ではないことだ。たとえ殺したのが「物語」であっても、行為者は涙を流す。切断のコストを引き受ける者だけが次の物語を書き始める資格を得る。 だからこの母殺しは、母の否定ではなく、むしろ母を「物語の登場人物」から「一人の他者」へ返す手続きなのだろう。呪縛が解けたあとに残るのは空白ではなく、初めて対等に向き合える生身の相手だ。自立とは親を打ち倒すことではなく、親をようやく他人として愛せるようになることなのかもしれない。 本作の根は『かえるくん、東京を救う』にあり、傍系に『タイランド』を置くべきだろう。モーターサイクルの男は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のやみくろ、かえるくんが対峙するみみずくんに連なる地下性の系列に属する。その地下性が本作ではブラジル、アリクイ、シロアリの女王へと変奏される。ただし、倫理の配置は逆転している。スカーレット・ヨハンソンを『海辺のカフカ』のカーネル・サンダーズの構造的等価物と見ることもできる。 重要なのは、これらが単なる自己模倣ではなく、自己模倣のずれとねじれを意図的に露出させる形で提示されていた点だ。現実と異界の重層という方法には、ありきたりだけれどシュルレアリスムやガルシア=マルケスに加えて、上田秋成『雨月物語』の系譜を見る思いがする。さらに村上は、メタフィクション性もそこに持たせる。主人公は26歳の絵本作家であり、それを踏まえると標題のThe Tale of KAHOは三重に読めることに気づく。 夏帆についての物語であり、夏帆が書く物語であり、夏帆が自分自身をKAHOという物語的存在へ変換していく過程の記録なのだ、と。 ありくい、ジャガー、シロアリの女王、守護天使、猫のスカーレット・ヨハンソン、象の卵。これらは夏帆の創作的象徴として実在と虚構の判別を宙吊りにする。村上自身が、彼女になって書いたという趣旨の言葉を残しているのは示唆的で、作者と作中作者の入れ子がここでは意図的に短絡されている。 この入れ子の表現がなければ、先の「第三の道」は描けなかったのかもしれない。いや、他にも方法はあるかもしれないし、ここは現時点のぼくには分からない。そもそも主人公を女性にする必然性も通読した時点では「ない」感じがする。また、起きた出来事を「善き物語=絵本」に編み上げる行為は、救いになる一方で入れ子の世界の別視点から見れば「ぜんぜん善くない」ようにも捉えられる。だが、権力勾配を隠蔽して不安定ながらも平穏さを保つ親子関係や弱人強食のシステムに介入する際、その是非や介入の仕方を模索する上でそのような入れ子はやはり有益なのだとも思う。 このことは、今後もしっかり考えていきたい。 ともあれ、噛みごたえのある作品だった。 『夏帆 The Tale of KAHO』/村上春樹/新潮社
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脳は細胞のかたまりに過ぎない。そして当然ながら、個々の細胞には意識も知能もない。読み書きの能力もない。なのに、細胞がかたまりになったら、意識が生まれ、思考や知能が生まれ、読み書きができるようになる。なぜ?――この謎はいまだ解明されていない。だが、そこに革命的な仮説が出てきた。👉 それが、この本の著者・ホーキンスの「1000の脳」理論である。それは人間の脳の構造と機能に関する理論で、ヒトの知性の基礎を理解するための仮説である。彼は脳を「古い脳(新皮質以外)」と「新しい脳(人類が進化させてきた新皮質)」に分ける。人間の脳は感覚器官と直接つながっている古い部分(脳幹や辺縁系)と、思考・意識・意思決定・言語・創造などにつながる新しい部分があり、古い脳は生存のための基本的な機能と感情を担当し、人間の本能的な反応や感情や反射などに深く関与し、新しい脳はより複雑な思考、理解、計画などの高度な認知機能を提供し、人間の意識的な活動と判断に関わっているという。 そして、新しい脳は、感覚器官とは直接つながっていないものの、古い脳を通して刺激が伝わってくるようになっているそうだ。 これを踏まえた上で、著者は本書で、新しい脳がどのように機能しているかに焦点を当てて理論を構築し、それを提示する。 それは、ざっくりとまとめて言えば、新皮質全体に多次元の座標系が存在し、知覚した情報がさまざまな場所にマッピングされ(一つの情報も数千の場所に分散して保存される)、それらの関係性を整理するモデル化が数多く行われ、脳内に世界モデルが構築される。それが絶えず学習・更新されていくことで、新しい脳が機能を発揮している、という仮説だ。 たとえば、脳は「予測」を行う。草むらがガサガサと鳴った時に、思わず身構えるように。だが、この「予測」というなかば本能的な機能を脳はどう実現しているのか? この理解も相当に難しい。カギは「座標系」である。 「今、あなたの目の前にコーヒーカップがあるとする。それをつかもうと手を伸ばすとき、コーヒーカップのモデルを持つ何千ものコラムが、次にどんな入力があるかを予測している。手ざわり、重さ、温度、机に戻した時に立てる音……。あなたの知覚とは、コラム間の「投票」によってたどり着いた合意である」 予測をするには、まず「世界はこういうものだ」というモデルを学習する必要がある。たとえばコーヒーカップという物体がどういうものかを知るのに、一点に触れたままでは何も学習できない。指を動かすことによって、指で感じるものがどう変わるかを知ることが学習だ。それを経ると、カップのふちや底や取っ手のような特徴の位置関係、つまり物体の構造を記憶することにつながり、その記憶を収めるために脳が地図に似た座標系を作り出すという。しかもその座標系は、新皮質を構成する何千何万という「皮質コラム」それぞれが作り、それをもとに皮質コラム間の連携などによって予測が行われるのである。 「皮質コラム」とは、新しい脳におけるニューロンの層のような構造のことである。それが人間の高次認知に関係していると著者は述べている。彼が独創的なのは、皮質コラムが脳の基本的な「情報処理単位」になっていると指摘している点だ。この皮質コラムが同時に座標系を作り出しているがゆえに、彼の理論は「1000の脳」と呼ばれる。 さて、ここで興味深いのは、座標系はコーヒーカップのような外の世界の物体を認知するためだけでなく、人が直接感知できない知識を整理するのにも使えるという点である。政治や数学、国家、民族といった概念についての知識も、すべて座標系に保存される。そのため、物理的に空間内を歩きまわるのと同じように、座標系内で、概念から概念へと動いていくことができる。それを、ぼくらは「思考」と呼んでいる。 数学者は方程式という数学の概念を座標系にきちんと保存しているため、似たような方程式に遭遇した時、どういう演算でその座標系内を動きまわればいいかがわかる。一方、数学に疎い人の場合、脳が座標系を作っていないので、方程式を解こうとしても数学の空間で迷子になってしまう。地図がないと森で迷子になるのと同じだ。 このように脳の働きを動的にとらえ、いっけんすると同じように見えるコラムがそれぞれに異なる機能を果たすよう領域を役割分担し、実はそれらが共通の基本アルゴリズムを実行しているのだとする理論が「1000の脳」理論である。 ちなみに、それぞれの皮質コラムはそれぞれ独立して学習を行っているため、各コラムは全て独自の世界モデルを持っている。他方、皮質コラムごとの世界モデルでの知覚は横方向の繋がりで共有されていて、ある種の「投票」のようなかたちで結果的に統合されたひとつの世界像を紡ぎあげる。それをぼくたちは「感じている」と感じるのだという。これを要約すれば以下のようになる。 ・特定のアイテムの知識は、数千もの相補的なモデルに分散している ・複数の感覚入力は、コラムが行う「投票」によって単一の知覚に結びつけられる ・何を知覚するかは、安定した投票ニューロンにもとづいていて、各コラム内の変化や活動は意識にはのぼらない 脳が座標系を作るのには利点がある。それは、「構造」を理解するのに役立つ点だ。座標系のおかげで、脳は何かの構造を学習することができる。コーヒーカップが一個の物であるのは、空間での相対的配置が決まっている一連の特徴と面で構成されているからだ。同じように、顔は鼻と目と口が相対的な位置に配置されたものである。相対的な位置と物体の構造を特定するには、座標系が必要なのだ。座標系とは、そんなコーヒーカップと顔という異なるものを「構造」として取り出し、互いの類似性をたゆたうようにしながらコーヒーカップの認知にも人間の顔の認知にも「構造」を役立てるために必須の要素である。これがあることで、脳は思考をコスパ良く進めている。 また、座標系を使って物体を定義することによって、脳は物体全体をいちどに処理することができる。たとえば、車には配置が相対的に決まっているさまざまな特徴がある。人はいったん車を学習すれば、視点を変えたら車がどう見えるか、あるいはひとつの次元を引き延ばしたらどう見えるかといったことを想像することができる。この芸当をなし遂げるのに、脳は、ただ座標系を回転させたり引き延ばしたりするだけで足りる。そうするだけで、車のあらゆる特徴が回転し、イメージとして引き延ばされる、そんなことが「構造」による認知によって実現できるのだ。 ちなみに、本書後半はホーキンスは「未来」を熱く語る。たとえば、彼は「現在のAIの知能は人間には及ばない」と述べる。確かにAIは限定された目的についてディープラーニングを行い、人間より速く正確に判断することはできる。しかし、基本的には指示がなければその後も学習し続けるということはない。複数の目的を果たしたりすることもできない。その意味で、人間に及ばない。 では、人間のような知的機械を作ることは可能なのだろうか。ホーキンスは「知的機械は人間に似たものにはならない」と答える。知能を作るには新皮質に似たものを作ればよいが、新皮質は目標や行動原理を持たず、それらは古い脳に由来するものだからだ。しかし、座標系というアイデアを取り入れることによって、これからの知的機械は専用型から汎用型に進化するだろうとも述べる。 ご関心のある方は、ぜひ本書を直に読んでみてほしい。 『脳は世界をどう見ているのか』 著者:ジェフ・ホーキンス 発行:早川書房
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「適者生存」という言葉は、めちゃくちゃ誤解されている。強い者が生き残る。優れた者が勝つ。その結果が「進化」だ。そう信じている人は意外に多い。でも、その理解はほぼ全て間違っている。本書の主役は、進化そのものではなく絶滅のほうだ。ぼくらは進化を「生き残った者の物語」として読みたがる。でも、地球史を眺めて見れば、これまで存在した生物種の、実に99%以上がすでに絶滅している。生き残りは、ごくわずかだ。 進化史の圧倒的な本体は「成功」ではなく「消滅」である。ぼくらはたまたま生き残った側の子孫であるに過ぎない。その生物が「優れていたから」生き延びたのではなく、 ただ「運が良かった」だけということが実際に多い。巨大隕石が地球に落ちて空が塵に覆われたとき、どれだけ環境に適応していようとも、たまたま地中に潜れた者、たまたま小さくて少ない餌で足りた者が生き延びるのである。 ちなみに、ぼくがこの本でいちばん唸ったのは、こうした科学的事実の紹介そのものより、「なぜぼくらは進化をこうも誤解するのか」を問う後半だった。著者は進化論をめぐる俗流の理解、たとえば「進化は進歩だ」「強い者が勝つのが自然の摂理だ」といった思い込みがどこから来るのかを掘り下げる。そこには、古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドとその論敵たちの有名な論争が召喚される。 グールドは生命の歴史のテープをもう一度巻き戻して再生したら、まったく違う世界になるはずだと論じた。人類が現れたのは必然ではなく、無数の偶然のたまものにすぎない、と。この主張は生命史から「意味」や「必然」を読み取りたがるぼくらの欲望を真正面から否定する。ぼくらは自分たちがここに在ることの理由が欲しい。進化の頂点として選ばれてここにいるのだと思いたい。その願望が、「適者生存」という言葉を都合よくねじ曲げてきた。 タイトルにもある通り、「理不尽な進化」なのである。進化は理にかなってなどいない。強い者が報われ、努力した者が生き残る、そんな道徳的な物語ではまったくない。それはただ、運と偶然に大きく左右される非情なプロセスである。そしてぼくらは、その理不尽さを直視するのがどうしても苦手で、そこに「進歩」や「適者生存」という耳あたりのいい物語を上書きしてしまう。 繰り返しになるが、進化は理不尽である。これは間違いない。ただ、その理不尽さを認めることは、絶望に直結するわけではない。生き残ったことに大した理由なんてないと認めたとき、ぼくらは初めて「優れているから生きていい」という残酷な等式から自由になれる。運で生き延びたにすぎないぼくらは、同じく運で苦境にある誰かに対して少しだけ優しくなれるはずなのだ。 『理不尽な進化 増補新版 遺伝子と運のあいだ』吉川浩満著、ちくま文庫
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人間関係は、白黒ハッキリしたものよりも「あの人は好かないけど言ってることは正しい」とか「この主張だけは肯定できる」「信頼できるけどこの一点は許せない」みたいな割り切れなさが大多数を占めている。なのに、その複雑さを捨て去って、敵か・味方かみたいな単純な関係で人と人を捉えるなら、それは社会を分断する方向に働くだろう。合意も何も、生まれようがない。👉 たとえば『なめらかな社会とその敵』では、「公敵なき社会」が構想される。なめらかな社会とは、敵か味方か、善か悪か、お前はどちら側かみたいな二項対立をなるべく減らし、複雑な現実を複雑なまま、関係性のなだらかな連続性をもきちんと含み込んで捉えていこうとする側面を持つ社会のことだ。 その実現のために、同書ではシュミットの「友−敵論」が批判的に検討される。もちろん、著者の精密な手さばきをもってしても敵/味方の観念を完全に排除することはできない。 ただ、敵か味方かみたいな関係のありようは、それこそ相互の関係値や環境、時と場合によって変化し得るし、敵というラベルを貼るにしても「それがどの程度なのか」「敵と見なす度合いや範囲、種別はどうか」といった視点を導入することによって、敵化することの暴力性が幾分か変わってくる。白か・黒か的な発想の暴力性が、それによって緩和される可能性もある。そしてこれは、「みんなでぶっ潰しても構わない敵=公敵」をなるべく生まない、公敵を必要悪にしない知恵としても重要である。 そういった見立てが民主主義的な社会を構想するのに大切だ。 こういう発想、もっと広まってほしい。
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善悪の感覚はどこから生じているのか。それは、進化の過程でぼくらの体に刻み込まれたものなのだろうか。本書がまさにその謎に挑む。たとえば血縁選択の理論では、利他行動は「血縁者を助けることで自分の遺伝子を残す戦略」として説明された。だが、著者のウィルソンは晩年、この血縁選択だけでは説明しきれないものがあると考えるようになる。そこで持ち出したのが、「群選択」あるいは「マルチレベル選択」という考え方だった。 その主張はこう要約できる。 進化は個体どうしの競争という一つのレベルだけで進むのではない。集団と集団の競争という、もう一つのレベルでも進む。集団の内部だけを見れば、利己的な個体のほうが得をする。ズルをする者、タダ乗りする者が有利だ。しかし、利他的な個体を多く含む集団はまとまりができ、利己的な個体ばかりの集団との争いに勝つ。つまり、個体のレベルでは利己が勝ち、集団のレベルでは利他が勝つ。この二つの力がせめぎ合いながら生物は進化してきた。これがウィルソンの説である。 ぼくらの心の中には、自分の利益を優先しようとする声と、仲間のために尽くそうとする声が両方ある。それは意志の弱さでも性格の表れでもない。二つの進化のレベルが、ぼくらの内側でいまなお戦い続けているのだ。 繰り返し言う。 集団の内部では利己的な個体が利他的な個体に勝つ。だが、利他的な個体を含む集団は利己的な個体ばかりの集団に勝つ。 この見立てなら、人間という存在のあの厄介な二面性が説明できる。ぼくらはなぜ、これほど利己的でありながら、これほど利他的なのか。なぜ裏切りもすれば自己犠牲もするのか。聖人にもなれば悪党にもなる。その分裂は、欠陥ではない。二つのレベルの淘汰を同時にくぐり抜けてきた生き物の、いわば設計上の宿命なのだ。ウィルソンは人間の条件をこの永遠の内戦として描き出した。 ぼくらの利他心は、幻想ではない。誰かのために身を削るあの衝動は、後から取ってつけた道徳の飾りではなく、進化がぼくらの深部に刻み込んだ本物の性質である可能性が高い。少なくともウィルソンは、その仮説から「善悪の感覚は進化に由来する」という方向に進む。もちろん、ウィルソンの説の正しさはまだ証明されていない。ただ、彼の提示した仮説がぼくらの道徳的判断のルーツに迫るための足がかりになった。 道徳は、明文化される以前に、欲望と本能に根ざしている。風習や文化がそこに味付けをしている。この構造がとても面白い。 ご関心のある方は、ぜひ本書を直に読んでみてほしい。 『ヒトの社会の起源は動物たちが知っている 「利他心」の進化論』エドワード・O・ウィルソン著、小林由香利訳、NHK出版
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