【語彙収集】 #
アガサ・クリスティ #
「知れる」という表現はいかにも悩ましい。
最近出逢った一文は、アガサ・クリスティ作品の翻訳に登場する「わたしたちの態度ですぐにそれと知れたことだろう」だ。私の感覚では、この「知れた」は現代の「知ることができた」という意味ではなく、「分かった」「判明した」「自然に明らかになった」に近い。古典文法でいう自発の「~れる」の流れを感じる。
例えば
「故郷が偲ばれる」
「昔のことが思い出される」
のように、人が意図して行うというより、自然とそうなる感覚。
実際、近代文学には
「正体が知れた」
「素性が知れた」
「居所が知れた」
といった表現が頻繁に登場する。これらは「知ることができた」というより、「明らかになった」「判明した」と言い換えた方がしっくりくる。
ところが近年、学生の文章やアンケートで
「授業で新しい知識を知れた」
「この授業で多くのことを知れた」
という表現をよく目にする。
私は長らくこれに違和感を覚えてきた。なぜなら、「知識を知れた」という表現は「正体が知れた」とは異なり、「知ることができた」という可能表現として用いられているように見えるからだ。しかし、この違和感について周囲に尋ねると意外な反応が返ってくる。
学生は「普通に使う」と言う。
若い教員も「特に気にならない」と言う。
ベテランの国語教員からは、「大丈夫です。十分通用する表現ですよ」という意見をいただく。
そこで改めて調べてみると、「知れる」は必ずしも誤用ではなく、辞書にも
・知られる
・明らかになる
・知ることができる
といった意味が掲載されていた。
どうやら「知れる」は本来、「判明する」「明らかになる」という意味を持ちながら、時代の流れの中で「知ることができる」という可能表現としても使われるようになったようだ。
そう考えると、この問題は単純な正誤の話ではない。
むしろ、「知れる」という言葉の意味領域が広がった結果、世代によって受け取り方が異なっている現象なのだろう。
私自身は今でも、
「正体が知れた」
「理由が知れた」
には違和感がなく
「知識を知れた」
「歴史を知れた」
には少し引っかかる。
だが、それを直ちに誤りだと断じることもできない。
結局のところ、「知れる」をめぐる違和感は、日本語の変化そのものを見ているのかもしれない。読書を続けていると、古い表現に慣れ親しむ一方で、新しい表現との距離も感じるようになる。「知れる」は、その世代差と言葉の変化が交差する、なかなか興味深い日本語なのではないだろうか。嗚呼、悩ましい。