「共同体」という言葉をさんざん訳してきて、その限界を感じているいま、石倉先生の本が少し前に出版され、読み進められるのが嬉しい。
私も石倉先生と同じく、韓国のr:eadで「共異体」の概念を教えてくれたイ・チャンウクさんに、たいへんお世話になった。
断続的にだけれど、自分の職能や職業倫理に照らし合わせて考えてきたテーマでもある。かつて翻訳・通訳には、文化間の「誤解」を解き、矛盾して見えるものを整合させる役割が強く期待されていたと思う。Aの文化ではこう、Bの文化ではこう、だからこの違いを埋めるために、橋を架けようみたいな。
でもとくにここ3年、それだけではないと強く感じる。
とくに植民地経験では、「相互理解」という善意そのものが、ときに危うい。
矛盾を解消するのではなく、「なぜそれが矛盾して見えるのか」をあえて残す。理解しやすい物語へ統合するのではなく、複数の記憶や立場が同時に存在している状態を壊さずに運ぶにはどうしたらいいのかを悩んできた。
ましてや「〇〇人にとって日本統治とはこういうものです」と訳者が分かりやすく説明した瞬間、その内部にある世代差、族群差、政治的立場、個人の記憶まで解像度を下げてしまう。
かつて文化翻訳が「違いを理解可能なものにする」仕事だったとすれば、いまはそこに、「理解可能にしすぎない」「矛盾を解消しない」「誰かを文化の代表者にしない」という倫理も加わってきた。
「相互理解」とは、違いをなくして同じ目的地へたどり着くことではなく、理解しきれないもの、矛盾して見えるもの、互いに異なる記憶を抱えたまま、それでも関係を結ぶことはできる。
「共同体」という言葉を数え切れないくらい訳してきて、翻訳について考えなおすこと自体が、「共異体」へ自分も近づいている。
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共異体の人類学#